歌舞伎には、世阿弥が能を高尚な芸術として完成させるために捨てた軽業(かるわざ)や曲芸などが、受け継がれてきました。古代に大陸から入ってきた伎楽や散楽は、中国の辺境で行われていた軽業、曲芸、奇術、幻術、人形まわし(傀儡=くぐつ)などの芸で、社寺や民間の祭礼や放浪芸に伝えられてきました。『御湯殿の上の日記』の1588(天正16)年2月1日に「くもまい、ややこおどり参りて、御かかりにて舞い申す」という記録があり、初期の女かぶきと一緒に蜘蛛舞という曲芸が演じられたことがわかります。元禄年間(1688~1704)を代表する女方の名優・芳沢あやめと人気を競った水木辰之助は、恋の一念で猫に変身する所作事で絶賛され、江戸に下って市村座で猫の所作と槍踊りで人気になりました。当時の歌舞伎の女方の芸には、宙乗りや曲芸があったのです。現在でも、女方の踊りに「引抜き」「ぶっ返り」「海老反り」「人形振り」、傘や鞠、羯鼓などを使う芸があるのはその名残りです。明治以降の歌舞伎の近代化の過程で「ケレン」や「宙乗り」は排除されてきましたが、二代目市川猿翁によって復活され、今では歌舞伎の魅力の一つになっています。そのほか、トンボなどの「立廻り」や「だんまり」「本水」など、歌舞伎はもともと観客の度肝を抜く仕掛けや特殊な演出が得意なのです。(浅原恒男)