歌舞伎が400年以上かけて創造し、磨き上げてきた様式的演技と類型的場面設定を、仮にここで「演技・演出」と呼ぶことにします。
歌舞伎役者は各々の役柄にしたがい、類型的な場面(シチュエーション)において、およそ決まった様式的演技を演じてきました。17世紀初頭に京に現れた出雲阿国(いずものおくに)は、小歌踊や群舞だけでなく、当時世間で流行していた傾き者(かぶきもの)の風俗をとり入れ、男装の阿国が猿若(さるわか)という道化役を供に連れ、茶屋女のもとに通うさまを演じました。元禄期(1688~1704)に京坂で活躍した初代坂田藤十郎の傾城買狂言(けいせいかいきょうげん)は、この茶屋通いを演劇的に発展させたものです。若殿や裕福な商家の若旦那が遊女に入れ揚げ、大切な家の宝を失って追放され、貧しい境遇に堕ちる「やつし」、遊女との「口舌(くぜつ=痴話喧嘩)」や「濡れ場(ラブシーン)」。若殿のために忠臣の一家が貧苦の中で苦闘する「愁嘆場」や「身売り」など、類型的な演技・演出が繰り返し演じられ、数々の名優たちの手で磨かれ、継承されてきました。江戸では1624(寛永1)年に初代猿若勘三郎が初めて猿若座を開いて歌舞伎を演じたと伝えられます。1673(延宝1)年に初代市川團十郎が坂田公時を演じて人気を得て、超人的な力をふるう「荒事(あらごと)」や不動明王などに扮する「神霊事」で「見得」や「にらみ」などの原型を創始しました。18世紀に人形浄瑠璃の名作が次々に歌舞伎にとり入れられると、戯曲の構造も複雑になり、役柄も分化し、演出の様式も多様化していきます。しかし常にその中心にあるのは、役者の様式的演技と、それを生かす類型的演出だったのです。(浅原恒男)