近松没後の竹本座を支えた浄瑠璃作者、頓作の名人
生年不詳 ~ 1741(寛保元)?【略歴 プロフィール】
浄瑠璃作者。本名は松田和吉(まつだわきち)といいます。1720(享保5)年頃大坂竹本座で初演の『河内国姥火(かわちのくにうばがひ)』が単独デビュー作といわれていますが、詳しい経歴についてはわかっていません。1722(享保7)年9月に発表した『仏御前扇軍(ほとけごぜんおうぎいくさ)』、1723(享保8)年2月『大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』は近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)に添削を受けていることから、近松の直弟子とされています。この後一時的に作品の発表が途絶えますが、1730(享保15)年には竹本座に復帰し、以後は本名から文耕堂と名を改めて作品を執筆していきます。
当時は、何人かの作者が分担してひとつの作品を執筆する合作が多く行われていました。文耕堂も竹本座の他の作者たち、長谷川千四(はせがわせんし)、竹田出雲(たけだいずも)、三好松洛(みよししょうらく)らと共に合作による作品を発表し、近松門左衛門の亡き後、享保後期から寛保期の竹本座における中心的作者として立作者を多く勤めました。
1741(寛保元)年5月竹田出雲、三好松洛らと合作した『新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)』を発表した後にまもなく亡くなったと考えられています。
【作風と逸話】
文耕堂は、現在でも度々上演される『ひらかな盛衰記』の松右衛門内や、『新薄雪物語』の園部館などの優れた時代物を多く執筆しましたが、そのうち単独作は4作で、ほとんどが合作です。近松以来の、義理を重んじながらも親子の情愛を描く竹本座の伝統を継承した文耕堂の作風は、上品ながらやや地味な印象も受けますが、当時竹本座で初代竹本義太夫の後継者とされた竹本播磨少掾(たけもとはりまのしょうじょう)の質実で情愛を細やかに表現する芸風とも相まって、大変好評を博しました。
紀海音(きのかいおん)、竹田出雲、並木千柳(なみきせんりゅう)と並んで、浄瑠璃作者の四天王と称されましたが、中でも文耕堂は頓作の名人といわれたそうです。頓作とは機知に富んだ作品を作ること。軍記物に題材をとりながらも、意外性のある登場人物設定で新鮮味をもたせるなど独自の工夫が見受けられます。
文耕堂と改名する前に一時的に竹本座を離れていた時期の消息ははっきりしませんが、歌舞伎作者となっていたとの説があります。1726(享保11)年京都の亀屋座の顔見世番付に、狂言作者として「大阪松田和吉」と名がみえています。(井川繭子)
【代表的な作品】
大塔宮曦鎧~身替り音頭(おおとうのみやあさひのよろい~みがわりおんど) 1723(享保8)年2月
三浦大助紅梅靮~石切梶原(みうらのおおすけこうばいたづな~いしきりかじわら) 1730(享保15)年2月
須磨都源平躑躅~扇屋熊谷(すまのみやこげんぺいつつじ~おうぎやくまがい) 1730(享保15)年11月
鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき) 1731(享保16)年9月
壇浦兜軍記~阿古屋琴責(だんのうらかぶとぐんき~あこやことぜめ) 1732(享保17)年9月
敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき) 1736(元文1)年5月
御所桜堀川夜討~弁慶上使(ごしょざくらほりかわようち~べんけいじょうし) 1737(元文2)年1月
ひらかな盛衰記(ひらがなせいすいき) 1739(元文4)年4月
新薄雪物語(しんうすゆきものがたり) 1741(寛保元)年5月
【舞台写真】
『ひらかな盛衰記』逆櫓 船頭松右衛門実は樋口次郎兼光(松本幸四郎) 平成22年11月新橋演舞場