宗輔と千柳、ふたつの筆名で人形浄瑠璃の黄金期を築いた実力者
1695(元禄8)年 ~ 1751(寛延4)年9月7日【略歴 プロフィール】
浄瑠璃作者。もとは備後国三原(広島県三原市)の臨済宗妙心寺派成就寺の僧でしたが、30歳頃還俗して大坂に住み、並木宗輔(なみきそうすけ)と名乗って人形浄瑠璃豊竹座の作者になったといわれています。1726(享保11)年4月『北条時頼記(ほうじょうじらいき)』に合作者のひとりとして参加し、10ヶ月余り続演するほどの大当りをとります。以後は豊竹座の立作者となり、合作および単独作を発表していきます。1741(寛保1)年より豊竹座の座本である豊竹越前少掾(とよたけえちぜんのしょうじょう)に同行して1年ほど江戸に滞在しますが、大坂に戻った後、1742(寛保2)年より歌舞伎作者として作品を発表します。
1745(延享2)年に浄瑠璃作者に復帰すると、初代竹田出雲が座本をつとめていた竹本座に迎えられます。以後は並木千柳と名乗り、2月に『軍法富士見西行(ぐんぽうふじみさいぎょう)』、7月に『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』を立作者として執筆します。この時期の劇界は人形浄瑠璃の人気が歌舞伎を凌ぐといわれた黄金期で、続々と名作が生み出された時代でした。特に並木千柳が実質上の立作者として執筆したといわれる、1746(延享3)年8月『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』、1747(延享4)年11月『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』、1748(寛延1)年8月『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』は戯曲の完成度も高く、歌舞伎でも上演を重ね、現在では歌舞伎三大名作と称されています。
その後も1749(寛延2)年は7月に『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』、11月に『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』などを発表していましたが、1751(寛延4)年に豊竹座へ帰り、名も元の並木宗輔に戻します。そして同年『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』を執筆中、三段目熊谷陣屋の段までを書いたところで亡くなりました。作品は弟子たちが続きを完成させてその年の暮れに上演されました。
【作風と逸話】
並木千柳は生涯に47作の浄瑠璃作品を手掛けたとされています。はじめに豊竹座で活躍していた頃の作品は、緻密な戯曲構成のもとで人間の業の深さや封建社会の矛盾などを描いた暗く悲観主義的なものが多いとされていますが、当時美声で知られた豊竹座の太夫、豊竹越前少掾の芸風によって華麗に語られ、興行的にも成功を収めました。歌舞伎作者時代を経て再び浄瑠璃作者となった竹本座時代の作品は、従来の緻密さに加えて華やかな舞台効果も備え、内容的にも運命に翻弄される人間を叙事詩的に描くことで以前の暗さは和らぎ、一種の無常観にまで達しているとされています。現在の文楽や歌舞伎の舞台でも多く上演され親しまれています。
伝えられる逸話は数少ない並木千柳ですが、漢学者頼山陽(らいさんよう)の父で朱子学者・詩人であった頼春水(らいしゅんすい)が、芸備地方で活躍した漢詩人の作品を集めた『三原集』の中に、並木千柳が浄瑠璃作者となる前、断継という名だった禅僧時代に詠んだ漢詩が収められています。1723(享保8)年秋に詠んだとされる漢詩の中には、壇ノ浦の荒涼とした景色を眺めては源平合戦の様を思い浮かべるという内容の一首があり、後に浄瑠璃作者として物語を編み出す才能の片鱗を窺うことができます。(井川繭子)
【代表的な作品】
北条時頼記(ほうじょうじらいき) 1726(享保11)年4月
忠臣金短冊(ちゅうしんこがねのたんざく) 1732(享保17)年10月
那須与市西海硯(なすのよいちさいかいすずり) 1734(享保19)8月
南蛮鉄後藤目貫(なんばんてつごとうのめぬき) 1735(享保20)年2月
苅萱桑門筑紫〓(かるかやどうしんつくしのいえづと) 1735(享保20)年8月※1
和田合戦女舞鶴(わだかっせんおんなまいづる) 1736(享保21)3月
釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ) 1737(元文2)年7月
茜染野中の隠井(あかねぞめのなかのかくれい) 1738(元文3)年10月
〓山姫捨松(ひばりやまひめすてまつ) 1740(元文5)年2月 ※2
軍法富士見西行(ぐんぽうふじみさいぎょう) 1745(延享2)年2月
夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ) 1745(延享2)年7月
菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ) 1746(延享3)年8月
義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) 1747(延享4)年11月
仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら) 1748(寛延1)年8月
双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 1749(寛延2)年7月
源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 1749(寛延2)年11月
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき) 1751(宝暦1)年12月
※1 〓は、車へんに榮
※2 〓は、庚へんに鳥
【舞台写真】
『菅原伝授手習鑑』賀の祝 [左から]桜丸女房八重(中村福助)、舎人桜丸(中村橋之助)、白太夫(市川左團次) 平成21年2月歌舞伎座