人形浄瑠璃の敏腕プロデューサーで、作者
?~1747(延享4)【略歴 プロフィール】
竹田出雲(たけだいずも)は1705(宝永2)年に、大坂道頓堀にある人形浄瑠璃の竹本座を竹本義太夫から譲り受け、その座本(経営責任者)となりました。劇場の経営、作品の企画制作で腕を振るうかたわら、当時竹本座の座付作者であった近松門左衛門の薫陶を受けて自らも戯曲の執筆をはじめ、1723(享保8)年『大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』を松田和吉(まつだわきち。のちに文耕堂)と合作し、作者としてデビューします。1724(享保9)年発表した『諸葛孔明鼎軍談(しょかつこうめいかなえぐんだん)』の絵尽し(絵本)の序文には、師匠である近松が「出雲は十余年、自分の指導の下で修業した。この作品は出雲ひとりの作であるが、自分の意図するところを瓶から瓶に水を移し替えるごとく汲み取っている。近松の流儀は出雲に継承されていく」と述べており、信頼と期待を寄せていたことがうかがわれます。また、1734(享保19)年にやはり単独作として発表した『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』では、それまで一人遣いだった人形に、現在のような三人遣いが考案され、あやつり人形の技法の上での一大転機となっています。初代竹田出雲の俳号は千前軒奚疑(せんぜんけんさいぎ)です。子に二代目出雲(小出雲)がいます。
この竹田出雲より以前に、父の竹田近江が一時“竹田出雲”を名乗ったとされることや、また彼の子供で、同じく作者であり座本としても活躍する竹田小出雲もすぐ跡を継いで“竹田出雲”を名乗ったため、後世に混乱を生じ出雲と小出雲が同一人物だと思われていた時期もあるようですが、現在ではこの竹田出雲を初代として“元祖出雲”または“座本出雲”、子の小出雲こと二代目竹田出雲を“親方出雲”と呼んで区別しています。(飯塚美砂)
【座本としての出雲】
出雲の父竹田近江(たけだおうみ)は、“竹田からくり”と呼ばれるからくり仕掛けの芝居を考案し評判をとった興行師でした。その次男であった出雲も、からくりや人形に詳しかったようです。『曽根崎心中』が成功し、義太夫が引退した後は、自ら竹本座の座本となり、近松と共に『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』を手始めに数々の作品を世に送り出しました。1715(正徳5)年に近松の書いた『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は17か月のロングランを続けるヒット作となっています。近松亡きあとは、自ら戯曲を執筆する一方で、文耕堂を竹本座の立作者に抜擢し、豊竹座の座付作者であった並木宗輔(なみきそうすけ)を竹本座に招く(宗輔は竹本座では並木千柳を名乗る)など、次にきたる人形浄瑠璃全盛期のための礎を築きました。
出雲の単独の署名のあるものは11作品ですが、ほかに連名の作品も十余作に及びます。その中には執筆者としてよりも座本という立場から、作品の立案にかかわったものも含まれているといわれています。最後に出雲が合作者として名を連ねたのは『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』で、竹本座で初演された翌年の1747(延享4)年に亡くなりました。(飯塚美砂)
【代表的な作品】
三荘太夫五人嬢(さんしょうだゆうごにんむすめ) 1727(享保12)年8月
芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ) 1734(享保19)年10月
小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう) 1738(元文3)年8月
男作五雁金(おとこだていつつかりがね) 1742(寛保2)年7月
【舞台写真】
『芦屋道満大内鑑』女房葛の葉(中村時蔵) 平成25年7月国立劇場