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かないさんしょう 金井三笑

ストーリー運びの巧者、作者の地位向上を図った江戸世話物の元祖

1731(享保16)~1797(寛政9)

【略歴 プロフィール】
1731(享保16)年に生まれた金井三笑は、中村座の帳元金井筒屋半九郎の子です。帳元というのは、その座の経理から人事、宣伝、場内の監督などあらゆることに責任を持つ立場にある役で、自身も22才の若さで父の跡を継ぎ、辣腕をふるいました。その帳元として評価と信頼を得ていたにもかかわらず、狂言作者へ転身した金井三笑の経歴はかなり異色のものといえましょう。
1754(宝暦4)年11月中村座上演の『三浦大助武門寿(みうらのおおすけぶもんのことぶき)』で立作者に次ぐ二枚目の狂言作者としてデビュー。翌1755(宝暦5)年6月中村座で上演した『江戸鹿子松竹梅(えどがのこしょうちくばい)』の中の舞踊、富本「夏柳夢睦言(なつやなぎゆめのむつごと)」が出世作となります。中村座の四代目市川團十郎、市村座の初代尾上菊五郎らと組んで活躍し、のちに鶴屋南北作品で名を挙げる初代尾上松助を最初に見出したのも金井三笑でした。生涯で100本以上の作品を書き、濠越二三治(ほりこしにそうじ)と並んで江戸の二大作者と称されますが、台帳(現在の台本にあたるもの)が残っているのは『卯しく存曽我(おんうれしくぞんじそが)』の二番目だけだといわれています。長唄、常磐津、富本などの作詞にすぐれ、現在でも河東節「助六由縁江戸桜」は「助六」の出端で演奏されます。1792(寛政4)年引退し、1797(寛政9)年に亡くなりました。

【作風と逸話】
「狂言を広く仕組みて締括り納まる」(いろいろな話からはじまって場を追うごとに謎を解き明かし終幕に向かって締め括っていく)という作風は“三笑風”と称され、江戸の世話物の元祖といわれています。この作劇法は続く四代目鶴屋南北にも大きく影響を与えたと思われます。また一狂言中に必ず一幕、所作(舞踊)を入れることや、名題(題名)の書き方、道具幕や書割幕(かきわりまく)などの大道具などにも工夫を凝らしました。また附帳(つけちょう。その興行の配役、大道具、小道具、衣裳、鬘や下座音楽などの指定を記した帳面)の制度を考案したのも金井三笑だといわれていますが、これは自分の脚本が上演される際には、舞台に関する全ての事を狂言作者である自分が掌握しておきたいという意図があったようです。

狂言作者にとって、書き上がった脚本を出演者はじめ舞台関係者を集めて読み聞かせる“本読み”は、話の趣旨や役柄を理解させるための重要な職務でした。この本読みでは、俳優たちも狂言作者へ意見を言うことができましたが、各人の要望を聞いていては収拾がつかず話の筋も通らなくなります。金井三笑は周囲から覗き見されないよう自分の台帳を細かい字で書き、帯刀してこの場に臨んだようです。一幕読み終わるごとに刀の柄に手をかけ「さぁ、宜しいか悪いか」と威嚇し、書き直してもらいたいと思っても恐ろしくて言い出せないように仕向けていたと、西澤一鳳(にしざわいっぽう。大坂出身の狂言作者)の『伝奇作書(でんきさくしょ)』に書かれています。劇作の主権は俳優ではなく、狂言作者にありという気概を見せた人物といわれています。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
江戸鹿子松竹梅(えどがのこしょうちくばい)の所作事、富本「夏柳夢睦言(なつやなぎゆめのむつごと)」 1755(宝暦5)年6月
菜花隅田川(なのはなすみだがわ) 1759(宝暦9)年1月
曽我万年柱(そがまんねんばしら) 1760(宝暦10)年6月、長唄鐘入解脱衣(かねいりげだつのきぬ) ※歌舞伎十八番「解脱」の初演
江戸紫根元曽我(えどむらさきこんげんそが)の所作事、河東節「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」 1761(宝暦11)年1月
百千鳥大磯流通(ももちどりおおいそがよい)の所作事、大薩摩「夏柳烏玉川(なつやなぎうばのたまがわ)」 1763(宝暦13)年5月 ※歌舞伎十八番の内「蛇柳」の初演
色上戸三組曽我(いろじょうごみつぐみそが) 1765(明和2)年1月
降積花二代源氏(ふりつむはなにだいげんじ)の所作事、常磐津「蜘蛛糸梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」 1765(明和2)年11月
花相撲源氏張胆(はなずもうげんじびいき)の所作事、富本「四十八手恋所譯(しじゅうはってこいのしょわけ)」1775(安永4)年11月 ※長唄・常磐津「鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)」の原曲
卯しく存曽我(おんうれしくぞんじそが) 1790(寛政2)年1月

【舞台写真】
『助六由縁江戸桜』花川戸助六実は曽我五郎(市川團十郎) 平成22年4月歌舞伎座
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