上方から江戸へ下った大作者
1747(延享4)〜1808(文化5)【略歴 プロフィール】
並木五瓶は、劇場の木戸番頭(きどばんとう)の子として、1747(延享4)年大坂の道修町(どしょうまち)に生まれました。木戸番とは劇場の入り口で観客から木戸札(入場券)を受け取る劇場従業員です。芝居町の中で育った彼は、初代並木正三(なみきしょうぞう)に弟子入りして、作者修業を始めたといわれています。1768(明和5)年頃から狂言作者として大坂の劇界で活動を始めるとみるみるうちに才能を発揮して、1773(安永2)年27歳のときにはすでに大芝居で立作者となり、上方の劇界を代表する作者として活躍します。初めは並木五八(吾八 なみきごはち)を名乗っていましたが、並木五兵衛と改名、1786(天明6)年頃より並木五瓶の名で作品を発表するようになりました。
1794(寛政6)年2月に三代目澤村宗十郎に書いた『島廻戯聞書(しまめぐりうそのききがき)』の一部として大坂中の芝居で初演した『五大力(ごだいりき)』は空前の大当りをとり、同年5月に京都でも『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』として上演され、源五兵衛は宗十郎一代の当り役となります。するとその評判を聞きつけた江戸の劇場・都座(みやこざ)より、契約金三百両という当時の作者としては破格の待遇で招かれてその年の冬に宗十郎と共に江戸に下ります。そして翌年の正月には江戸の観客に向けて登場人物名や地名を江戸風にするなど執筆に工夫を重ねて改作した『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』を発表し、大当りとなりました。1798(寛政10)年11月にいったんは大坂へ帰るものの1年ですぐ戻り、その後は江戸の大作者として活躍しました。
五瓶が上方で培った写実的で合理的な作風や作品を持ち込んで以降は、それまで荒事を主としてきた江戸歌舞伎でも世話物が人気を博し、縁切物が流行するなどの影響がみられました。1808(文化5)年2月2日に浅草雷門の自宅で62歳で亡くなりました。
【作風と逸話】
五瓶の作者生活の前半は、大坂で初代嵐雛助らと提携して、『天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)』などスケールの大きな時代物や、『金門五三桐(きんもんごさんのきり)』のように舞台装置を効果的に用いた演出などで知られた作者でした。
一方、後半江戸に下ってからは主に写実的な世話物を手がけましたが、それまでの慣習を破って、二番目狂言を一番目の時代物とは独立した世話物として別の名題で上演する形式を始めたことが知られています。
また作者の作法についても、それまでは統一されていなかった台帳(台本)の執筆書式について、1枚の紙に書く行数を定めたり、顔見世興行の前に立作者の家に集まって手打をする作者の「顔寄せ(かおよせ)」を始めるなどの風習を導入しました。
1792(寛政4)年正月二の替大坂中の芝居『入間詞大名堅儀(いるまことばだいみょうかたぎ)』では、劇中に一座総出演の大掛かりな大名行列の場面を出しましたが、その中に五瓶の発案で本物の馬2頭を登場させたので初日から大変な評判でした。ところが9日目に馬が興奮して舞台で粗相をしてしまい場内は大混乱、ついに役人が駆け付ける騒ぎとなって、芝居は3日間の謹慎休場となってしまいました。こうした大胆な演出も五瓶の写実精神の表れといえるでしょう。作者とは芝居の世界におけるいわば軍師のようなもので、作品を書くのみならず演出や興行面についてもすすんで責任を持つべきだという信条を持っていたようです。(井川繭子)
【代表的な作品】
天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう) 1777(安永6)年3月
金門五三桐(きんもんごさんのきり) 1778(安永7)年4月
けいせい黄金鯱(けいせいこがねのしゃちほこ) 1783(天明3)年正月
けいせい倭荘子(けいせいやまとぞうし) 1784(天明4)年正月
漢人漢文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり) 1789(寛政1)年7月
入間詞大名堅儀(いるまことばだいみょうかたぎ)1792(寛政4)年正月
島廻戯聞書(五大力)(しまめぐりうそのききがき ごだいりき)1794(寛政6)年2月
五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ) 1795(寛政7)年正月 ※江戸砂子慶曽我(えどすなごきちれいそが)二番目
隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ) 1796(寛政8)年正月
富岡恋山開(とみがおかこいのやまびらき) 1798(寛政10)年正月
【舞台写真】
『五大力恋緘』[左から]勝間源五兵衛(中村鴈治郎)、芸妓菊野(中村扇雀) 昭和47年9月歌舞伎座