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ながわしめすけ 初代奈河七五三助

周知のストーリーの目先を変え、蘇らせる洗濯屋

1754(宝暦4)年 ~ 1814(文化11)年10月20日

【略歴 プロフィール】
1754(宝暦4)年大坂道頓堀の茶屋、福新の子として生まれ、幼名は新次郎、通称を金次郎といいます。初代奈河亀輔の門に入り、1777(安永6)年大坂中の芝居に立作者に次ぐ二枚目の作者として出勤し、1781(天明1)年に中の芝居で立作者に進みました。その年の12月、江戸上りの増山金八と合作した『連歌茶屋誉文臺(れんがちゃやほまれぶんだい)』が上演され好評を得ています。1800(寛政12)年から1806(文化3)年の間に、二度ほど江戸に下り、江戸の劇場にも出勤し、また上方に戻りました。生涯で90本余りの作品を書き、1814(文化11)年10月20日に61歳で亡くなっています。

【作風と逸話】
師の奈河亀輔に倣って軍記物や、『義臣伝読切講釈(ぎしんでんよみきりこうしゃく)』など講釈ものを題材にした時代物を多く手がけましたが、世話物にも『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』など、現在も上演され続けているものがあります。院本(浄瑠璃正本)や古狂言の“焼き直し”が得意だったといわれますが、七五三助の活躍した江戸時代後期には、すでに狂言の筋が出尽くしていたことや、上方下りの狂言作者に対して江戸の観客が目新しい上方の作品を期待していたことから、既存の作品を用いて趣向をかえ観客の要望に応えていたと考えられます。

多くの作品が当時よく知られていた浄瑠璃や狂言の焼き直しだったために“洗濯物の七五三助”と綽名されました。そのことは、自分でも承知していたらしく、1803(享和3)年5月には『洗張古手帷(あらいはりふるてかたびら)』という作品を書いています。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
連歌茶屋誉文臺(れんがちゃやほまれぶんだい) 1781(天明1)年12月
隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ) 1784(天明4)年4月
稲光田毎月(いなびかりたごとのつき) 1784(天明4)年8月
義臣伝読切講釈(ぎしんでんよみきりこうしゃく)~植木屋(うえきや) 1788(天明8)年2月
けいせい北国曙(けいせいこしじのあけぼの) 1789(天明9)年1月
大振袖粧湖(おおふりそでけわいのみずうみ) 1789(寛政1)年3月
いろは仮名四十七訓~弥作の鎌腹(いろはがなしじゅうもじ~やさくのかまばら) 1791(寛政3)年9月
〓[土へんに舊]礎花木影(めいしょずえはなのこのした) 1794(寛政6)年11月
復讐高音皷(かたきうちたかねのたいこ) 1808(文化5)年8月

【舞台写真】
『隅田川続俤』双面水照月 [左から]娘おくみ(中村芝雀)、法界坊の霊・野分姫の霊(中村吉右衛門)、手代要助実は吉田松若丸(中村錦之助) 平成26年9月歌舞伎座
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