南北とともに江戸歌舞伎を爛熟期へと牽引した狂言作者
1767(明和4)年 ~ 1818(文政1)9月8日【略歴 プロフィール】
福森久助は、寛政末から文化年間にかけて、町人文化が興隆する江戸で活躍した狂言作者のひとりです。1767(明和4)年、本所四つ目の薪問屋に生まれましたが、狂言作者を志し1785(天明5)年、江戸桐座に昌橋丘次(まさはしきゅうじ)の名で出勤した後、奥田丘次(おくだきゅうじ)、玉巻丘次(たまききゅうじ)などと名を替え1788(天明8)年11月に桐座から中村座に移ります。当時の中村座の立作者は“江戸の花の桜田”とたたえられた初代桜田治助ですが、彼はまずこの治助について修業します。同時期、治助の門下にはのちに四世鶴屋南北となる勝俵蔵(かつひょうぞう)もいました。一回りも年上で長い間下積みに甘んじていた勝俵蔵とは対照的に、久助は早い時期から書き場を与えられるようになります。1796(寛政8)年に福森久助と改名し、1798(寛政10)年11月の中村座の顔見世興行『花三升芳野深雪(はなとみますよしののみゆき)』で二枚目作者となります。1801(享和1)年11月からは市村座に移り、大坂出身の立作者初代並木五瓶の下につき、ここで江戸の作者の担当する部分を取りまとめる役を担い、上方の作劇法も学んだと思われます。この時期、劇場は火災や財政難による休座や経営者が変わる事態が頻繁に起こっていました。俳優も狂言作者も劇場を替えて出勤するようなことも多くなっていました。久助も市村座からまた中村座に移り、1805(文化2)年11月河原崎座で立作者となりました。中村座の桜田治助、市村座の並木五瓶という両雄と肩を並べる立場となったのです。その後、三代目坂東三津五郎のための作品を書いた久助と、五代目松本幸四郎と組んでいた四代目鶴屋南北が共に江戸歌舞伎を牽引するようになります。1808(文化5)年中村座で、上方から三年契約で江戸に下った三代目中村歌右衛門が江戸中の人気をさらったときは、対抗して市村座で南北らと合作し『勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)』『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』などのちに名作と言われる作品を立て続けに生み出しました。歌右衛門が上方へ帰ったのち、1812(文化9)年11月からは三津五郎とともに再び中村座に勤め、『短夜仇散書(みじかようきなのちらしがき)』や『比翼蝶春曽我菊(ひよくちょうはるのそがぎく)』などを著しました。1818(文政1)年9月9日に亡くなっています。
【作風と逸話】
上方出身の並木五瓶から学んだ上方歌舞伎の作品を題材に、江戸の人物や風俗に書きなおした作品が多かったので“焼き直しの久助”とも言われたと、明治期の書『狂言作者概略』にありますが、もともとの話では登場しない人物を創り出し、わき役にすぎない人物像を大きく膨らませて活躍させるなど、創意にあふれた部分も多く見受けられます。また師桜田治助のおおらかさと華やかさを持つ作風を受け継ぎ、写実的で色ごとの描写にも優れ、所作事の作詞も得意としました。彼の作風は治助の“桜田風”に対して“福森風”と言われます。『比翼蝶春曽我菊(ひよくのちょうはるのそがぎく)』のなかの浄瑠璃「其小唄夢廓(そのこうたゆめもよしわら)」は現在もよく上演されます。
福森という名前は、木挽町の劇場に出勤する際に通っていた中橋南伝馬町にあった「福守」という筆屋の屋号からとったものだそうです。本所に生まれ、後年も本所安宅(あたけ)に住んだことから“安久(やすきゅう)”と呼ばれました。(飯塚美砂)
【代表的な作品】
花三升芳野深雪(はなとみますよしののみゆき) 1798(寛政10)年11月
其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ) 1809(文化6)年1月
短夜仇散書(みじかようきなのちらしがき) 1813(文化10)年7月
四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや) 1815(文化12)年11月
比翼蝶春曽我菊~其小唄夢廓(ひよくのちょうはるのそがぎく~そのこうたゆめもよしわら) 1816(文化13)年1月
褄重噂菊月(つまがさねかねてきくづき) 1816(文化13)年9月
花雪和合太平記(はなとゆきわごうたいへいき) 1817(文化14)年11月
【舞台写真】
『其小唄夢廓』[左から]三浦屋小紫(坂東玉三郎)、白井権八(守田勘弥) 昭和49年10月歌舞伎座