鶴屋南北の片腕として活躍した舞踊作品の名手
1793(寛政5)年~1830(文政13)年4月11日【略歴 プロフィール】
1793(寛政5)年生まれ、子供の頃より三絃をよくし、はじめは杵屋和蔵(きねやわぞう)を名乗って囃子方となります。そののち初代松井幸三の門に入って、松井新幸と改め作者見習いとなり、1810(文化7)年11月には江戸中村座の顔見世興行に初出勤しました。そして1816(文化13)年11月に二代目松井幸三を襲名します。以後は主に、当時立作者であった四世鶴屋南北のもとで劇作を続け、1823(文政6)年6月森田座『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』では、清元の所作事「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」を作詞しています。「南北つづきの作者」「近来の出来作者なり」と称されるなど、周囲からも南北の後継者としてその才能を期待され、南北が別の座にいて留守のときでも、「当時評判のよき松井幸三丈も居らるるから、狂言に如才はござるまい」との定評を得ていました。1829(文政12)年11月には市村座で正式に立作者となります。しかし翌年の1830(文政13)年4月11日、病のため38歳の若さで亡くなりました。
【作風と逸話】
若いころから三味線の名手だった彼は、創作においても特に、清元や富本など豊後節浄瑠璃の作詞を得意としました。「かさね」の通称で知られる「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」や『江戸桜衆袖土産~土佐絵(えどざくらてごとのいえづと~とさえ)』などは、現在もしばしば舞台で上演される人気舞踊曲となっています。
また、作者として鶴屋南北のもとでその劇作を助けていた時期が長く、南北の晩年の傑作『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』や『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』にも二枚目作者として関わっており、幸三の助力が大きく影響しているといわれています。
江戸吉原揚屋町に住み、三味線が得意で芸事にもすぐれていた、と伝えられている幸三は、その特技を活かしてお座敷を勤める太鼓持ちも兼業していたそうです。しかし大変な大酒飲みであったらしく、若くして亡くなったのもそれが原因といわれています。(井川繭子)
【代表的な作品】
雪月花黒主(ゆきとつきはなのくろぬし) 1810(文化7)年11月
色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ) 1823(文政6)年6月 ※清元
酒償色三肩~戻駕(さかてましいろのさんまい~もどりかご) 1824(文政7)年5月 ※富本
知仁勇爰頼三津(ちじんゆうここによりみつ) 1829(文政12)年11月
曽我評判比翼男(そがひょうばんひよくおとこ) 1830(文政13)年1月
江戸桜衆袖土産~土佐絵(えどざくらてごとのいえづと~とさえ) 1830(文政13)年3月
【舞台写真】
『色彩間苅豆』[左から]腰元かさね(中村福助)、百姓与右衛門実は久保田金五郎(中村橋之助) 平成25年8月歌舞伎座