品よく楽しく人間味あふれる狂言舞踊の作者
1881(明治14)年~1925(大正14)年【略歴 プロフィール】
能や狂言を歌舞伎にうつした松羽目物(まつばめもの)の舞踊の中でも、現在も人気の高い『身替座禅』『棒しばり』などを書いた岡村柿紅は、本名を岡村久寿治といいます。1881(明治14)年に高知で生まれ、幼少の頃、家族とともに上京しました。叔母が女義太夫の二代目竹本東玉(たけもととうぎょく)だったことから、芸能関係の人々との付き合いが多く、1901(明治34)年には岡本綺堂も在籍していた中央新聞に入社、1909(明治42)年まで在籍します。その後、二六新報や読売新聞で劇評を担当し、1911(明治44)年に創刊された雑誌『演芸俱楽部』の編集主任となります。『演芸俱楽部』は1914(大正3)年10月『演芸画報』に併合され廃刊となりますが、柿紅は1916(大正5)年3月からは創刊された『新演芸』の主筆として腕を振るいました。またそのころから市村座の経営に携わり、1920(大正9)年、“大田村(おおたむら)”と呼ばれた興行師田村成義(たむらなりよし)没後には、後を引き継いだ息子の田村壽二郎(たむらとしじろう)の片腕となって経営に努めました。新作歌舞伎が最も活況を呈していたそのころ、柿紅も市村座の六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎の芸風にあわせた作品を、舞踊劇を中心に発表していきました。1923(大正12)年、関東大震災で市村座が消失してからはその復興に努めましたが、1924(大正13)年に田村壽二郎が亡くなったあとは重責を一身に負い、そのために健康を害したと言われています。1925(大正14)年5月6日、44歳という若さで没しています。
【作風と逸話】
明治以降、歌舞伎にも高尚な芸術性を求める風潮が広がります。能狂言に素養のあった岡村柿紅が書く松羽目物は、すっきりと筋が通り上品で、なおかつ狂言を移しただけでなく一歩も二歩も歌舞伎に近づけたより人間味あふれるものでした。それにより演技のしどころも増え、見応えのある作品となっています。
ジャーナリスト、劇評家、編集者、脚本家、経営者といくつもの顔を持つ柿紅でしたがその人柄は非常に常識のある温厚な知識人であったようです。自らも鷺流の狂言を習い、舞台に上がったこともありました。一方、親交のあった歌人の吉井勇に「酔柿紅(すいしこう)」と称されたほど大酒のみでもあり、この酒が寿命を縮める一因にもなったようです。(飯塚美砂)
【代表的な作品】
身替座禅(みがわりざぜん) 1910(明治43)年3月
棒しばり(ぼうしばり) 1916(大正5)年1月
太刀盗人(たちぬすびと) 1917(大正6)年7月
芋掘長者(いもほりちょうじゃ) 1918(大正7)年9月
鈍太郎(どんたろう) 1920(大正9)年1月
茶壺(ちゃつぼ) 1921(大正10)年3月
悪太郎(あくたろう) 1924(大正13)年6月
【舞台写真】
『身替座禅』[左から]山蔭右京(中村勘三郎)、奥方玉の井(坂東三津五郎) 平成21年12月歌舞伎座