近代的な視点と古典の教養を併せ持つ小気味の良い江戸っ子作家
1885(明治18)年9月6日~1942(昭和17)年1月8日【略歴 プロフィール】
池田大伍は、本名銀次郎といい、1885(明治18)年に銀座の天ぷら屋“天金”の次男坊として生まれました。早稲田大学の英文科を卒業し、東京毎日新聞で劇評を担当したあと、師である坪内逍遥のもとで文芸協会の演芸主任を勤めます。1913(大正2)年、文芸協会解散の後は東儀鉄笛、土肥春曙らと劇団無名会を作り、そこに作品を提供し、劇作家としての道を歩み始めました。無名会解散後は、二代目市川左團次のブレーン集団“七草会(ななくさかい)”の会員になります。すでに大家として名を成していた松居松翁、岡本綺堂、小山内薫、永井荷風らのなかに交じって最年少での参加でした。『名月八幡祭(めいげつはちまんまつり)』や『男達ばやり(おとこだてばやり)』などを左團次のために執筆し、1928(昭和3)年、左團次を筆頭とする歌舞伎ソビエト公演には、病に倒れた小山内薫に代わって文芸部長格で同行しました。帰国後は、中国文学の研究に耽り、元曲(中国元代の戯曲)の翻訳などに熱心でした。1942(昭和17)年、風邪から肺炎を起こし56歳で急死しています。
【作風と逸話】
池田大伍は生粋の東京生まれで、早稲田の英文科で学びましたが、西洋の文学、近代劇ばかりでなく、歌舞伎や江戸の風俗、習慣にも精通していました。新劇での活動経験に基づいた理論的な筋運びと素養に裏打ちされた緻密な風俗、人物描写、歯切れのよい台詞は、余人の及ぶところでなく、『名月八幡祭』『西郷と豚姫(さいごうとぶたひめ)』などは新歌舞伎の代表傑作とされています。
銀座の老舗に生まれ、文学や芸能に理解のある家族に恵まれ、文筆と読書にいそしむことができた池田大伍の境遇は、文筆仲間や師の坪内逍遥にまで羨まれるものでした。若いころから大人の風格があり、明るく屈託のない人柄は多くの人に慕われました。話し上手で、彼が入るとその場が和んだと言われています。江戸っ子らしく、諸事に通じて気が回る人でしたが、シャイな一面も持ち合わせていたようです。国文学者、民俗学者の池田弥三郎は彼の甥にあたります。(飯塚美砂)
【代表的な作品】
滝口時頼(たきぐちときより) 1914(大正3)年3月11~12日 ※無名会
茨木屋幸斎(いばらきやこうさい) 1915(大正4)年5月14~23日 ※無名会
西郷と豚姫(さいごうとぶたひめ) 1917(大正6)年4月22~28日 ※無名会
初演時「西郷とお玉(さいごうとおたま)」
名月八幡祭(めいげつはちまんまつり) 1918(大正7)年8月
根岸の一夜(ねぎしのいちや) 1922(大正11)年10月
男達ばやり(おとこだてばやり) 1926(大正15)年5月
古柏莚根元助六(こはくえんこんげんすけろく) 1936(昭和11)年4月
【舞台写真】
『名月八幡祭』[左から]芸者美代吉(中村福助)、縮屋新助(坂東三津五郎) 平成22年7月新橋演舞場