文筆と実業、多方面で活躍の文壇の大御所
1888(明治21)年12月26日~1948(昭和23)年3月6日【略歴 プロフィール】
文藝春秋社の創立者であり、芥川賞・直木賞の創設者としても知られる菊池寛は、1888(明治21)年、香川県高松に生まれました。小学校時代は教科書も買えないという貧しい暮らしでしたが成績は良く、東京高等師範学校に推薦で入学します。しかし型にはまらない行動から除籍され、明治大学や早稲田大学に在籍したのち、旧制第一高等学校に入学し直しました。当時の同級には芥川龍之介、久米正雄などがいます。そののち京都大学英文科に入学し、アイルランドの戯曲などを研究しながら、在学中から『屋上の狂人(おくじょうのきょうじん)』などの戯曲を創作していきます。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」で、その時学んだ作劇法が戯曲を書く基となったといわれています。1916(大正5)年に29歳で京大を卒業し、時事新報の社会部記者となり、1919(大正8)年退社するまでの三年間、ジャーナリストとして勤めながら文筆活動を進めます。その時期に小説として書いた『忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)』や『恩讐の彼方に(おんしゅうのかなたに)』『藤十郎の恋(とうじゅうろうのこい)』などがまず評価され、文壇での地位を確立します。1919(大正8)年3月に十三代目守田勘弥主演で『忠直卿行状記』が、同年10月には初代中村鴈治郎主演で『藤十郎の恋』が大森痴雪脚色によって上演され好評を博し、1920(大正9)年3月には、『恩讐の彼方に』も自ら脚色し、『敵討以上(かたきうちいじょう)』という題名で上演します。この成功により彼の戯曲作品『父帰る(ちちかえる)』『屋上の狂人』なども改めて注目され、勘弥や二代目市川猿之助により上演が実現、劇作家としても高く評価されるようになっていきます。また同じ時期には大阪毎日新聞に小説『真珠夫人』の連載もはじめ、流行作家としても世に知られました。1923(大正12)年、文藝春秋社を起業し、文壇のジャンルにとらわれない雑誌「文藝春秋」を創刊、企画、編集にも携わります。作家、劇作家の地位向上を図るために日本文藝家協会も組織し初代会長に就任、著作権擁護の活動や、「芥川賞」「直木賞」「菊池寛賞」などを設けるなど社会的活動にも熱心に取り組みました。一時期は映画会社大映の社長も勤めています。文壇の大御所として、実業家として幅広く活躍していましたが、戦後は公職追放を受け、1948(昭和23)年に狭心症で59歳で亡くなっています。
【作風と逸話】
菊池寛は、現実至上主義者であり、芸術性よりもまず生活と倫理観を重要視した作者だといわれます。彼の書く戯曲には、問題を投げかけたままで終わるのではなく、常に社会的に望ましいと思われる結末が用意されていました。それはわかりやすく、多くの人の心情に受け入れられやすいものでした。また、小説として発表された作品が戯曲化されて歌舞伎や新劇で上演され、映画にもなるという、マルチメディアな使い方をされたのも、当時としては目新しく画期的なことでした。
戦後まもなく、菊池寛の短編集が新潮文庫から出版されましたが、その解説は実は菊池寛が自分で書き、名前だけを吉川英治に借りました。そのなかで『藤十郎の恋』については、この作品は、作品の価値よりも鴈治郎によって上演されたために名を成したのだと、自ら冷静に裁断しているそうです。これは文藝春秋社の編纂した「逸話に生きる菊池寛」の中にあるエピソードです。(飯塚美砂)
【代表的な作品】
忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき) 1919(大正8)年3月15~24日
玩辞楼十二曲の内 藤十郎の恋(とうじゅうろうのこい) 1919(大正8)年10月※原作
恩讐の彼方に(おんしゅうのかなたに) 1920(大正9)年3月26~30日 ※文芸座
初演時「敵討以上(かたきうちいじょう)」
父帰る(ちちかえる) 1920(大正9)年10月25~27日 ※春秋座
屋上の狂人(おくじょうのきょうじん) 1921(大正10)年2月1~14日
奇蹟(きせき) 1921(大正10)年5月
玄宗の心持(げんそうのこころもち) 1922(大正11)年10月
茅の屋根(かやのやね) 1923(大正12)年4月
入れ札(いれふだ) 1926(大正15)年1月
【舞台写真】
『忠直卿行状記』松平忠直卿(二代目市川猿之助) 昭和23年5月新橋演舞場