番町皿屋敷 バンチョウサラヤシキ

観劇+(プラス)

執筆者 / 小宮暁子

皿屋敷物ここに注目

家宝の皿を割ってしまったために、主人に殺され井戸に投げ込まれた腰元が、井戸のなかから化けて出るという「皿屋敷」の巷説を歌舞伎に移したものでは『播州皿屋敷』『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』(俗称『魚屋宗五郎』)が有名だが、本作も代表作の一つ。お家騒動など面倒な筋を労せず、身分を越えた純粋な恋愛劇としているのが清新で、新歌舞伎の傑作とされる由縁である。

新歌舞伎

江戸から明治中期まで、歌舞伎の脚本は各々の座に付属する狂言作者(=座付作者)によって書下ろされていた。明治以降に、座付作者ではない文学者によって書かれた脚本で、歌舞伎の手法を駆使したものを新歌舞伎という。明治27年に坪内逍遙(しょうよう)が早稲田文学に『桐一葉』を発表して先鞭をつけた。作者としては逍遙のほか、松居松葉(のち松翁)、山崎紫紅、高安月郊、岡鬼太郎、岡本綺堂、池田大伍、真山青果らがあげられる。

旗本奴と町奴ここに注目

武家のなかで、大名と御家人の中間層が旗本である。百石以上、一万石以下の知行を持ち将軍にお目見得できる徳川家直参の武士。青山播磨は七百石の設定。史実の水野十郎左衛門は三千石である。旗本の子弟が徒党を組んで無頼を働いたものを「旗本奴(やっこ)」と呼び、対して町人から出て自警団的な役割も担った俠客を「町奴」とよんだ。代表格が幡随院長兵衛で、『極付幡随長兵衛』では長兵衛が水野邸の浴室で旗本側に殺害される。

二代目市川左團次

明治の劇界で團菊左と並び称された初代左團次の長男で、明治後期から昭和前期にかけて活躍した。二十代半ばにヨーロッパ、アメリカを八ヵ月演劇視察旅行。帰国後、西欧劇の上演、劇場の改革、新歌舞伎の創造など演劇改革を目指した。その一方で、古劇や南北物の復活をはかるなど、近代演劇史に多大な足跡を残した。芸風は線が太く、二枚目系の役でも無骨な外見の内側から男の色気が滲むところが魅力だった。誠実な人柄で誤魔化しがきかず、せりふを間違えると元にもどって言い直したという。それでも観客の失笑をかわない堂々たる風格を持ち、大向うから時として「大統領」のかけ声がかかった。

松蔦(しょうちょう)のような女

大正初年、左團次が本郷座に出演していた時期、相手役の二代目市川松蔦は、帝大生(東京大学の学生)の間で大変な人気を博した。「松蔦のような女」の言葉が生まれたくらいに、なま身の女に近い魅力を感じさせたようだ。鈴をはったような瞳をもった清楚な美貌。従来の歌舞伎の女方の持つ厚ぼったい色気とは無縁なたたずまい。無骨だが真に男らしい男と清純な女のコンビは『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』などの岡本綺堂作品で観客を魅了した。