観劇+(プラス)
鎌倉一の風流男ここに注目
梶原源太は鎌倉一の風流男と呼ばれる色男という設定で、紅白の梅花を付けた侍烏帽子に鴇色(ときいろ)の着物、紫繻子に縫いを取った艶やかな素襖、長袴という優美な扮装で登場する。これは源太が矢を入れる箙に梅の枝を挿して出陣したという優雅な逸話に基づいている。そんな色男の源太が、勘当を受けた後には黒い古褞袍に縄の帯というみすぼらしい姿になる。その姿の対照に作者の趣向がある。
「源太勘当」はホームドラマ
三宅周太郎は「源太勘当」の一幕は「今日上流社会の家庭の出来事そのままでそこが好きだ」と評した。出来のいい兄と小間遣いの恋、それを妬んで小間遣いにちょっかいを出すやんちゃな弟、ふしだらな兄をいたわり弟もかばう母親、そこが悲劇でありながら、明るい暢気な気分を作っていると書いている。
「先陣問答」
源太と平次が掛合いで語る宇治川合戦の「先陣問答」が見どころになっている。「源平盛衰記」の詞章を取り入れた物語で源太は葛桶に腰を掛けたまま語り、平次は上手に座ってそれを糺し、上手にいる千鳥が時々言葉を挟む。時代物に不可欠な見せ場である物語を掛合いで見せる趣向が珍しい。
「源太は殺さぬ手ばかり動く」
源太が勘当されたのを見て、平次の命で軍内が源太に斬りかかる。それをかわした源太は軍内に向かい「親どもからの使いなれば汝を殺すわけにはいかぬ」と言いながら、軍内の刀を奪い「うぬが刀でうぬが首」「源太は殺さぬ手ばかり動く」と首をはねる。ユーモラスな場面である。
「源平盛衰記」
狂言の底本になった「源平盛衰記」は鎌倉時代から室町時代に書かれた戦記物語で「平家物語」と同様に、1162(応永年間)年から1182(寿永年間)年の20年間に亘る源氏と平家の争いと平家滅亡までを綴っている。著者は不明。どちらの作品が先に生まれたかには諸説ある。分量は「盛衰記」の方が多く、逸話なども収録して百数十項目に亘っている。「平家物語」が琵琶法師によって語り物(平曲)で流布したのに対して「盛衰記」は読み物として広まったようだ。
「逆櫓」~樋口の二つの物語
最初は梶原館での次第を語る物語で、これは船頭松右衛門として語る世話の物語。館の様子にはじまり梶原、家来の忠太、松右衛門自身の言葉を声色を使って語り分ける。次は樋口次郎と本性を顕してからの戦物語。こちらは豪快な武将の語りになる。最初はお筆への労わり、次が自身の合戦の様子、三つ目が現在の心境と権四郎への感謝と三段の語り分けに技巧が要る。とくに時代物の語りから、権四郎に向かって「これも誰が蔭親父様」と世話に砕けるところが見ものである。七代目市川團十郎が創始した型だという。
「権四郎頭が高い」
樋口が本性を明かすところは樋口役者の見せ場である。樋口は二重から降り、門口の格子を開けて外を見て「権四郎頭が高い」と格子を閉め「イヤサ、かしらが高い」以下の台詞を言いつつ権四郎、およしと付けまわしになり、大音声の「樋口次郎兼光なるわ」で二重に上がり、片足を落として両手を衿にかけて、二人を見下し見得をする。三代目中村歌右衛門の型だが、その時権四郎を演じていた浅尾工左衛門が稽古場で散々毒づいたのに応えて工夫した型だと言う。
権四郎の人間像ここに注目
主役は樋口だが人間像が良く書けているのは権四郎。船頭らしい気骨のある老人で孫槌松を溺愛している姿、その孫を殺されたと聞いた怒り、聟が樋口と知った驚き、槌松の死を諦める心理、さらに樋口のため重忠に若君の助命を頼む情愛まで刻々と変化する権四郎の人間像が舞台を盛り上げる。人形浄瑠璃では幕切れに浜歌を唄い詩情を出す。
立ち回りと物見
三人の船頭が出て逆櫓の稽古になる。船頭は三味線に乗ってノリの台詞で言うのが決まり。その後樋口は髪を捌き額に血糊を付けた姿で現れて、大勢の船頭を相手に立ち回りを見せる。最後は船頭たちが並んで船の形を作るのがお定まりの型。船頭たちを追い込んだ樋口は六方を踏んで門の外の松の木に登り,枝を突き上げて「北は海老江」以下の台詞を言う。時代物にある「物見」と呼ばれる演出である。
畠山重忠
歌舞伎では畠山重忠は常に情理を弁えた武将として登場する。平家追討の合戦で活躍した武将だが、「吾妻鏡」をはじめ多くの書物の中で勇猛で剛直、さらに廉直な武士の典型として描かれていることから爽やかな捌き役になったのであろう。
逆櫓論争
逆櫓とは船を前にも後ろにも自在に操れるように、船尾と共に船首にも櫓を立てて漕ぐ技術のことだが、「平家物語」や「盛衰記」によると、平家との船戦を前に梶原景時が逆櫓の訓練を主張したのに対し、源義経はそれを拒否して争論になったとある。その逸話を樋口の物語に取り入れたのである。
「無間(むけん)の鐘」伝説と流行り歌ここに注目
遠州掛川小夜の中山の寺にあった無間の鐘は、撞けば来世は無間地獄に堕ちるものの、現世では富を得るという言い伝えがあった。鐘を撞こうとした人々が押し寄せ死者が出たため鐘は井戸に投げ込まれ、今もその井戸が残されているとか。無間地獄とは、地獄のなかでもいちばん恐ろしい地獄で、間断なく責め続けられるため無間地獄という。 梅ヶ枝がやぶれかぶれで手水鉢を叩いて、三百両を得る場面から、俗謡「梅ヶ枝節」が生まれ流行した。歌詞は「梅ヶ枝の手水鉢、叩いてお金が出るならば、もしもお金が出た時は、そのときゃ身請けをそうれたのむ」。渥美清太郎の邦楽舞踊辞典によれば、1878(明治11)年に流行したもので、江戸時代の「そうれたのむ節」が原曲。「らくだ」で歌われる「かんかんのう」の流れを汲んでいる。