観劇+(プラス)
題名の「天網島」の意味
心中場所の網島と天の網を掛けている。天の網とは「老子」の「天網恢々疎にして漏らさず」を連想させて二人の心中を咎める一方、本文に「成仏得度誓いの網島」と仏による救済の両方の意味を掛けている。
歌舞伎の『心中天網島』
歌舞伎では人形浄瑠璃初演の翌年に江戸森田座で二代目市川團十郎が治兵衛を演じて好評を得たとあるが、それ以降は散発的に上演されるに止まっていた。浄瑠璃の方でもその後幾つかの改作が作られたが特に評判になっていない。1774(安永3)年は近松門左衛門の五十回忌に当たったが、この年に大長寺で小春と治兵衛の書置きが見つかったという噂が立ち、それを仕組んだ『新版のべの書置』という歌舞伎が大坂角の芝居で上演された。これは法界坊のような悪坊主が活躍する喜劇だったらしい。
近松半二作『心中紙屋治兵衛』
「のべの書置」の趣向を取り入れて近松半二が1776(安永7)年に、原作を改作した『心中紙屋治兵衛』という浄瑠璃を書いた。それを歌舞伎に移し、上方和事狂言に仕立てたのが現在の「河庄」で、「紙屋内」は文化頃に改作され『時雨の炬燵』の外題で上演された。治兵衛は和事を得意とする上方の役者によって演じ続けられ、明治期には初代中村宗十郎と初代實川延若が得意にしたが、両者の芸を取り入れて初代中村鴈治郎が独自の治兵衛を創造し一代の当たり役にした。
玩辞楼十二曲(がんじろうじゅうにきょく)ここに注目
初代中村鴈治郎は治兵衛を当たり役にし「河庄」「時雨の炬燵」は、彼の当たり役を集めた玩辞楼十二曲の一つになっている。その芸は歴代の鴈治郎が継承して家の芸にしている。初代の「河庄」の愁い顔を手ぬぐいで隠した花道の出の艶やかさを、岸本水府は「頬かむりの中に日本一の顔」と川柳に詠んでいる。
おさんの手紙と口三味線
「河庄」の原作と歌舞伎との大きな違いは、原作ではおさんが小春に送った手紙は次の「紙屋内」で初めて明らかになるのだが、歌舞伎では冒頭に丁稚三五郎が小春に手紙を届ける場面がある。さらに敵役の太兵衛と善六が口三味線で小春と治兵衛の仲を面白可笑しく語る滑稽な場面が付け加えられている。
あんたは兄さんここに注目
治兵衛が兄の孫右衛門の顔を見て「あんたは兄さん」と逃げようとし、家の中へ引っ張り込まれる前後は、アドリブを含む大阪弁の応酬で現在の漫才に通じる笑いを呼ぶ場面。上方の笑いの文化の伝統を感じさせる。
治兵衛の「一人語り」ここに注目
治兵衛が問わず語りで小春との馴れ初めとこれまでの経緯を語るところは歌舞伎の入れ事で、元禄の坂田藤十郎が得意とした「一人語り」の芸の流れを汲む場面。上方和事の見せ場である。
起請文(きしょうもん)
略して、起請とも呼ぶ。廓の遊女と客のあいだで、愛の証として神仏に誓いを立てた文を互いに交わすことが流行した。とくに熊野牛王符の裏に書くことが多く、約束を破れば、熊野の神の使いである烏が三羽死ぬと信じられていた。小春と治兵衛は毎月起請を交わし、二十九枚にもなったと治兵衛が語っているので、二人の仲は三年越しであったことがわかる。
「紙屋内」と「時雨の炬燵」
原作の「紙屋内」と歌舞伎の「時雨の炬燵」の一番の違いは父五左衛門の人物像で、原作では五左衛門は頑固一徹な老人だが「時雨の炬燵」ではわざと治兵衛に辛く当たるものの、身請けの金をそっと置いていく訳知りの老人になっている。従って後半の展開が大きく違っている。
二人別々の死ここに注目
『曽根崎心中』などでは心中した二人は未来で添い遂げるのだが、本作ではおさんへの義理を立てて法体(ほったい。出家の姿)になった二人は未来でも一緒になれない。近松は治兵衛の縊死の姿を「なり瓢(ひさご)、風に揺らるるごとくにて」と書いている。
「翁草」の逸話
18世紀後半に刊行された随筆集「翁草」には、住吉の茶屋で酒を飲んでいた近松のもとへ、芝居町の若い者が心中事件を知らせに来たので、近松は早駕籠の中で書き出しの文章を考えたという逸話が載っている。「名残の橋づくし」の「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は若紫」の詞章から生まれた逸話であろう。
近松門左衛門
近松門左衛門(1653-1724)は本名を杉森信盛といい越前の武家の生まれ。父が浪人したため京都に移住し公卿の家に仕え古典の教養を身に付けた。宇治加賀掾のために書いた『世継曽我』がきっかけで作者生活に入り、竹本義太夫と提携して浄瑠璃の世界に新風を吹き込んだ。一時期歌舞伎の坂田藤十郎一座の座付作者となったが、再び人形浄瑠璃の作者に戻り、1703年の「曽根崎心中」で世話浄瑠璃という分野を拓いた。代表作に『冥途の飛脚』『女殺油地獄』『平家女護島』『国性爺合戦』などがある。