観劇+(プラス)
修「禅」寺物語ここに注目
本作は、歌舞伎の演目のなかでもとりわけよく題名の字を間違えるもののひとつである。本作で中心的な役割を果たす源頼家が北条時政を討とうとして失敗し、幽閉されたのは現在も続く寺院・修禅寺である。この題名は、直接には寺名にちなんで名づけられたもののようである。ちなみに、現在静岡県伊豆市の、修禅寺を含む地域の町名は「修善寺町」が正しい。観光地として、僧空海が平安時代に開いたとされる古い歴史を持つ温泉や、町の中を流れ、本作にも描かれる桂川が有名である。
頼家の面
曹洞宗の寺院として現在も続く、福知山修禅寺に保存されている。もともとは舞楽面であったと推定されている。その写真と説明は修禅寺のホームページ(http://shuzenji-temple.com/jihou.html)にあり、綺堂自身の所感は『綺堂劇談』(青蛙房、昭和31年)に収められた「創作の思ひ出 修禅寺物語」にもくわしい。綺堂は本作を書くきっかけとなった明治41年9月の滞在中、頼家の墓にも詣でている。墓は、修禅寺から桂川を挟んでやや離れたところにある指月殿の境内に現存する。
夜叉王の人物像
参考にした伝説として、綺堂は、室町時代末期の能役者・金剛右京久次(孫次郎)が死に行く妻の面影を描き写し、のちに「楊貴妃」の面(現在の「孫次郎」)のもととしたという話と、江戸時代初期の能役者・北(喜多)古七大夫が、留守中に自らの子を誤って死なせた乳母の半狂乱の様子を見て、能『藤戸』の前シテの演技を会得した話を挙げている。「夜叉王」の名は、鎌倉時代初期の能面師・夜叉から名をとったという。 また、夜叉王のすぐれた技術が、現実に起こることがらを予見していたという結末は、イギリスの作家オスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という言葉をそのまま連想させる。予見という現象が持つオカルト的な味わいも含めて、本作には19世紀末ヨーロッパに広く行われた芸術至上主義の影響も現れている。そして日本の能役者の逸話と西洋の思想が、夜叉王においてあまり違和感なく融合しているように見えるのは、英語を得意とし、幼少期から多くの書籍を読んだ綺堂の学識によるところが大きいようである。
せりふの美ここに注目
本作にはまた、男性的な魅力を持ち、新劇運動にも関わった二代目市川左團次の初演した作品によく見受ける、美しい長ぜりふがいくつもある。とりわけよく知られるのは、第一場で夜叉王が頼家に面を渡せないと断る時に述べる「その期日は申し上げられませぬ。左に鑿(のみ)を持ち、……」、また第二場で頼家が桂に述べる「あたたかき湯の湧くところ、温き人の情けも湧く。恋をうしないし頼家は、ここに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。……」であろう。 本作の頼家は、高音の朗々とした口跡で美男としても知られた十五代目市村羽左衛門の得意とする役であった。江戸時代以来の歌舞伎の古い語調を残しながら、恋で心の痛みを癒やすという繊細な意識のありかたを美しい俳優が語るところに、本作の近代性の一端が現れていたともいえるだろう。