面作り師・夜叉王(やしゃおう)は、伊豆の修禅寺に押し込められた将軍源頼家(みなもとのよりいえ)から顔を写した面を依頼されたが、満足のゆく面ができない。しかしそれは彼の腕が拙いからではなく、頼家が持つ暗い運命のためであった。夜叉王の娘・桂(かつら)も出世を望んで、その運命に巻き込まれてゆく。
1204(元久元)年秋のはじめ。伊豆の国修善寺村、桂川のほとりに住む面(おもて)作り師夜叉王(やしゃおう)の家。美しく勝ち気な姉娘の桂(かつら)と、その妹の楓(かえで)が名産品の紙を砧でたたいて柔らかくしている。桂は面を作る職人の仕事など卑しいもので、「この家で一生を終わりたくない」と言い、仕事に誇りを持っている楓の夫・春彦と言い争う。 父の面作り師・夜叉王が出てきて諍いを止め、春彦に、桂は亡き母に似て気位が高く公家のような気質なのだと言い聞かせる。
修禅寺に蟄居させられている鎌倉幕府の二代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)が、お忍びで夜叉王を訪ねてくる。自分の顔を写した面を作ってほしいと頼んだのに、半年以上たってもできないので、気の短い頼家は自ら催促に来たのだ。「面のできない理由を言え」とせまられた夜叉王は、「自分の中に力がみなぎって流れるように打つのでなければ面は打てない、いつできるか約束はできない」と答える。怒った頼家は夜叉王を斬ろうとする。驚いた桂と楓が父の打った試作の面を差し出すと、その素晴らしいできばえに頼家は満足し、桂のことも気に入って、奉公させることにする。高貴な人に仕える希望がかなった桂はすすんで供をする。 頼家たちが去ったあと、失敗作を渡してしまったことに耐えられない夜叉王は、今まで作った面をすべて砕こうとする。だが「一生に一度名作ができれば名人、これからいよいよ立派なものを作ればよい」と泣きながらさとす楓の言葉に黙りこむ。
頼家は修禅寺へ戻る途中、桂川のほとりで連れ添ってきた桂と言葉を交わす。頼家は鎌倉で母方の親族である北条方と不和になり、愛した若狭局(わかさのつぼね)も争いで失って深く傷ついていた。そしていま「恋を失った自分はここで新しい恋を得た」と喜び、桂に「若狭」の名を与える。
頼家の前に、北条の使いとして金窪兵衛行親(かなくぼひょうえゆきちか)が現れる。行親は頼家が桂に「若狭」の名を与えたと聞き、鎌倉に相談もせず勝手な行いだと非難する。取り合わずに去って行く頼家と桂。しかし行親のほんとうの目的は、北条方の命令で頼家を暗殺することだった。たまたま行親の計画を聞いてしまった春彦は、行親たちが去ったのち、あとから来た頼家の家来、下田五郎景安(しもだごろうかげやす)に伝える。下田五郎は襲ってくる行親の手勢を斬り捨て、夜討ちの企みを修禅寺に伝えるよう、春彦に頼む。
修禅寺を夜討ちする音が夜叉王の家まで聞こえてくる。春彦が走って戻り、修禅寺に近づくこともできなかったと報告する。そこへ桂が先ほどの面をつけ、頼家の身代わりをつとめて重傷を負って戻ってくる。取りすがって「死ぬな」と泣く楓に、桂は「半時でも将軍に召し出され、名を頂いて満足だ」と告げる。逃げてきた修禅寺の僧が、頼家が討たれて死んだと告げる。自分が何度頼家の顔を写そうとしても生きなかったのは、技術が足りなかったからではなく、夜討ちで死ぬ頼家の運命が自然と面の上に現れたからだと覚った夜叉王は、自分の技に心から満足する。そして死に行く娘・桂の顔をのちの手本にするため、紙に描き写すのだった。
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