観劇+(プラス)
町火消(まちびけし)ここに注目
町火消は大岡越前守が町奉行の時代に作られ、いろは四十八組に分かれ江戸市中で活躍していた消防団で、主に鳶が役割を担った。「め組」は現在の港区芝の辺りを担当した。出動の時は全員水を被り、組頭を先頭に、組の名入りの提灯を振りかざし、梯子持、纏、手押しポンプの竜吐水(りゅうどすい)に続いて鳶口を持った男たちが整然と隊列を組んで走る。芝居に取り上げられるほどのカッコ良さで、若者憧れの職業だった。落語にも火消しにあこがれる若旦那を主人公にした「火事息子」という演題がある。江戸時代にはこの他に武家を守る大名火消(だいみょうびけし)と定火消(じょうびけし)があった。
相撲取
江戸時代中頃から江戸での相撲の本興行は春、冬の年二回、晴天十日開催が決まりだった。そのため「一年を二十日で暮らす良い男」といわれた。現在では十五日間、しかも本場所は六回で九十日。四日に一度土俵に上っている勘定である。 大名に抱えられた力士は扶持を与えられ、士分待遇を受けていたので、鳶人足とは身分が違うと侍が言ったことで辰五郎はカチンときたわけである。
江戸の人口
享保三年(1718)暮れに最初の人口調査が実施された。それによると町方人口約53万5000人中、男性39万人、女性14万5000人。女性は男性の半数にも満たない男社会。ここに単身赴任の大名家の家臣団を加えたら男性は大変な数だった。そこで幕府公認の遊所吉原誕生へと動いてゆく。
岡場所(おかばしょ)
江戸で公認の遊所は吉原のみ。江戸の四隅にあたる五街道の出発点には幕府準公認の遊所が設けられ岡場所と呼ばれていた。品川(東海道)、千住(日光・奥州街道)、板橋(中山道)、内藤新宿(甲州街道)。め組の喧嘩の主人公たちが遊んでいた島崎楼は、その岡場所のなかでも大店だったようだ。
五代目尾上菊五郎ここに注目
辰五郎を初演したのは五代目菊五郎。世話物を得意としていた様子のいい五代目にきってはめたような役。役作りに生来の凝り性を発揮して、辰五郎内の場の出道具(でどうぐ、舞台装置として飾る小道具)は、実際のめ組の人たちに全て問い合わせて作り上げ、歩き方は高い足場を鳶職が一直線に歩く様子をとり入れた。子供の頃から火事が大好きで火事を知らせる半鐘がなると刺子絆纏を着て駆けつけて、いなせなところを見せたがったというから衣裳にも凝ったことは疑いない。