観劇+(プラス)
悲恋の代表キャラクター<お染久松>
大店のうら若いお嬢様とまだ前髪の奉公人の心中事件は1710(宝永7)年に起こり、すぐに歌祭文に歌われて巷に流行した。事件直後に人形浄瑠璃として『心中鬼門角(しんじゅうきもんかど)』が上演され、その後も歌舞伎や人形浄瑠璃で多くの作品がつくられ、ついには「お染久松物」という一大作品群が形成された。舞台を江戸に移し、お染と久松を含む七役を早替りで演じる『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』、コメディ要素が多い『新版色読販(しんぱんうきなのよみうり)』、舞踊の『道行浮塒鷗(みちゆきうきねのともどり)』などがある。
対照的な二人の娘
お染は立派な商家のお嬢様で、何不自由なく育ってきた。身に着けるものもきらびやかで、それに負けない美貌の持ち主。世間知らずな箱入り娘ながら、都会育ちで早熟な面もある。一方のお光は田舎の百姓の娘で、身なりも質素で垢抜けない。病気の母を介護する、けなげでしっかりした性格。それだけにお染と久松のために身を引いて出家の道を選ぶ決意をするのが哀れである。
野崎参り
野崎観音として親しまれた福聚山(ふくじゅさん)慈眼寺(じげんじ)は、奈良時代に僧行基によって創建されたという歴史ある寺。江戸時代には、大坂から東に約10キロの生駒山地の見晴らしのよい場所にあって、物見遊山も兼ねての参詣が流行した。5月はじめに、有縁無縁すべてのものに感謝の読経を捧げる無縁経法要の行事を特に「野崎参り」と呼び、大変な人出で賑わった。徒歩で行く他に舟で行くルートもあった。近松門左衛門の名作『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』の序幕「徳庵堤」もその舟着場のひとつが舞台になっている。 舟の客と陸路の参詣人で口喧嘩をして、相手を言い負かすと1年間運が良くなるという風習があった。落語『野崎参り』にもその様子が語られている。「野崎まいりは屋形船でまいろ…」で始まる『野崎小唄』は昭和10年に東海林太郎(しょうじたろう)が歌ったヒット曲で、「お染久松」も歌詞に織り込まれている。そのころの作詞家の素養がゆかしく偲ばれる。
お夏清十郎(おなつせいじゅうろう)ここに注目
久作が久松とお染に「お夏清十郎」の物語を引き合いに出して意見する。米問屋但馬屋の娘お夏と手代清十郎が恋に落ち、二人で駆け落ちするものの途中で捕まり、清十郎は主人の娘の誘拐と濡れ衣の横領の罪で死罪となり、実家に幽閉されたお夏は乱心して行方不明になるという話。井原西鶴の『好色五人女』や近松の『五十年忌歌念仏』などにとりあげられた悲恋物語である。坪内逍遥作の舞踊『お夏狂乱』は現在も上演される。
婆抜き(ばばぬき)
省略されることもあるが、重病で目も見えなくなり一間に臥せっている久作の妻(お光の実母)の姿を見せる場面がある。ここを省略するのを「婆抜き」などと呼ぶこともある。この場面があると、余命いくばくもない妻を安心させてやろうと、久作が婚礼を急がせた背景がわかる。
両花道ここに注目
歌舞伎で、客席から見て左側の花道のほかに、右側にももう1本、花道を設置することがある。これを両花道といい、左側を本花道、右側を仮花道と呼ぶ。 「野崎村」の幕切れで、よくこの両花道が使われる。舞台が回り、家の裏手の土堤になり、油屋母娘を乗せた舟が川に見立てた本花道を、久松を乗せた駕籠が土堤に見立てた仮花道を、にぎやかな太棹のツレ弾きの中で引っ込む。このとき駕籠舁と船頭がユーモラスな動きを見せる。この場面を派手な三味線に乗せてにぎやかに見せることで、逆にお染久松の哀れな行く末の予感と、見送るお光の内心の悲しみが浮かび上がる、すぐれた演出である。
六代目菊五郎の演出
幕切れにお光が久作にすがりついて泣き崩れる演出は、近代歌舞伎の歴史に必ず登場する名優・六代目尾上菊五郎(1885~1949)が考案した。1930(昭和5)年2月歌舞伎座で、初役で演じて以来のもので、『演芸画報』昭和5年3月号所載の六代目の芸談には、それまでにも一定の型はあったが、原作の義太夫をよくよく研究し、お光が口では諦めたと言いながら胸の内ではどれほど辛く苦しかったか想像するに余りあり、と考えた上の工夫であると書かれている。古典に近代的な解釈を積極的に採り入れたすぐれた新演出で、これが現在まで受け継がれる定番となった。