曽根崎心中 ソネザキシンジュウ

観劇+(プラス)

執筆者 / 鈴木多美

史実の曽根崎心中

史実では徳兵衛は大坂内本町醤油問屋平野忠右衛門の甥(兄の子)で25歳、お初は京都の島原遊郭から流れて来た堂島新地の天満屋抱えの遊女で21歳。二人は深く馴染むが、お初は田舎客から身請けを迫られ、徳兵衛も主人の養女と縁組みをして江戸の支店に行かねばならなくなる。行く末をはかなんだ二人は1703(元禄16)年4月7日曽根崎天神の森で心中死を遂げた。

作者近松門左衛門

近松門左衛門は本名杉森信盛。1653(承応2)年、越前(福井)藩士の子として生まれるが父が浪人して京都に移り住み、公家の一条家に仕えたという。25歳頃から古浄瑠璃の宇治加賀掾や竹本義太夫に作品を提供し、歌舞伎の初世坂田藤十郎にも戯曲を書いた。『曽根崎心中』の大成功の後、1705(宝永2)年、竹本座の座付作者として人形浄瑠璃に専念する。近松の作品は義理やしがらみの多い社会に生きる人々の「生き生きとした感情」を鋭く描く。代表作は他に『国姓爺合戦』『心中天の網島』など。1724(享保9)年、72歳で没。

人形浄瑠璃の世話物第一作。竹本座の赤字を一気に取り戻した大当たりここに注目

1703(元禄16)年4月に曽根崎の心中事件が起きた直後に京坂の歌舞伎各座が取り上げ、5月7日に人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演された。これが浄瑠璃で世話物が上演された最初となった。義太夫の情の籠もった細やかな語りとお初を遣う女形人形の名人初世辰松八郎兵衛の華やかさなどが人気を呼んで大当たりとなり、それまでの竹本座の赤字を一気に解消した。

心中の大流行

『曽根崎心中』の大当たり以後、近松門左衛門の心中物は『心中天の網島』『心中宵庚申』など傑作がある。心中物の狂言に影響されたのか市井では心中事件が頻発し、『曽根崎心中』初演と翌年の2年間で何と合計36件の心中事件が起きてしまう。当時心中は犯罪とみなされて遺体は公の場に晒され、万一両人または片方が生き残った場合は罰せられた。それでも心中事件が多発したので、幕府は「心中」という言葉を禁じて「相対(あいたい)死に」としたり、1723(享保8)年には心中物の脚色・出版を禁止した。

宇野信夫による復活

初演後歌舞伎や人形浄瑠璃で様々な書き替え狂言(改作)が作られたが、やがて舞台での上演が途絶えた。1953(昭和28)年に宇野信夫脚色・演出、文楽の野澤松之輔作曲の『曽根崎心中』が新橋演舞場で上演され二代目中村鴈治郎と二代目中村扇雀親子が恋人たちを演じた。

新しい女方ここに注目

お初を演じた二代目中村扇雀は当時20歳。演出家武智鐡二の指導の下で修業を積む若手だった。「天満屋の場」でお初は床下に隠れた徳兵衛に素足を差し出して心中の覚悟を尋ねる場面があり、美しく肉感的な扇雀の演技は観客に衝撃を与えた。女方は立役に遠慮して内輪に演技するのが決まり事だが、初日に二人が心中場へ急ごうと花道を入る所で、扇雀は無我夢中になりお初が徳兵衛の手を引っぱって先を行く画期的な演技を見せた。扇雀はイキの詰んだ台詞廻しと若く美しい肉体で自己主張する「新しい女方」として爆発的人気を呼び「扇雀ブーム」が巻き起こった。

文楽でも復曲した人気狂言

歌舞伎の大ヒットに触発されて文楽でも1955(昭和30)年1月に『曽根崎心中』を復曲し大阪四ツ橋文楽座で上演した。脚色・作曲は歌舞伎版も手掛けた西亭(野澤松之輔)。この時の人形は徳兵衛が初代吉田玉男、お初は二代目吉田栄三。栄三没後は現吉田簔助などが遣い文楽の人気狂言として現在も繰り返し上演される。

一世一代

「一世一代」とは長年勤めた当たり役を演じ納める意味。二代目中村扇雀は三代目中村鴈治郎を経て四代目坂田藤十郎となったが初演から61年間お初役を一筋に演じ続けて、2014(平成26)年4月歌舞伎座で「一世一代」と銘打ち通算1351回お初を勤め上げた。お初の役は近年は藤十郎の次男三代目中村扇雀や孫の初代中村壱太郎も演じる。徳兵衛は初演から1980(昭和55)年まで藤十郎の父二代目中村鴈治郎、その後は藤十郎の長男五代目中村翫雀が持ち役にする。