観劇+(プラス)
恨みつらみの名せりふここに注目
「しがねえ恋の情けが仇…めぐる月日も三年越し、格子造りの囲い者、死んだと思ったお富たぁ、お釈迦様でも気が付くめえ」
つまらない恋のせいで落ちぶれて三年がたって、死んだと思った女が、人の囲い者になって立派な屋敷でのうのうと暮らしているとは…という恨み。それが歌舞伎のなかでもっとも有名な名ぜりふだ。ぜひ、それを言われるお富の身になって聞いてみよう。
歌謡曲「お富さん」
「死んだはずだよ、お富さん、生きていたとはお釈迦様でも…」と歌われた、昭和29年の春日八郎の大ヒット曲。歌舞伎を知らない子供でも意味も分からずに歌った。宴会ソングの定番となり、その後も大学歌舞伎研究会の愛唱歌としても親しまれる。歌詞には「与話情浮名横櫛」のエッセンスがたくみに盛りこまれている。沖縄出身の作曲家による陽気な曲調も楽しい。
二人のその後の運命は
脚色によっていろいろ違いがあるが、そのうちひとつをご紹介。鎌倉で再会後、一度は夫婦として暮らしたお富と与三郎だったが、殺人事件をきっかけに与三郎は島送りに。しかし江戸恋しさからなんと脱獄!その後は源左衛門に復讐しようとして果たせず、養い親にも一目しか会えず、品川で偶然再会したお富は、知人の妻になっていた。しかしその知人が腹を斬り、その血潮と薬のおかげで傷が治り、与三郎は実家のお家騒動の解決に向かうという顛末になっている。
与三郎役者
与三郎を初演した八代目市川團十郎はさわやかで愛敬のあった人で、その柄にぴったりの与三郎は大当たりした。しかし翌年、團十郎は大坂の地で自刃してしまった。以後多くの俳優が与三郎を演じたが、なかでも美男ぶりが際立つ十五代目羽左衛門は生涯に30回与三郎を演じている。演芸画報の羽左衛門の芸談には、「傷を見せるしぐさも、八代目さんはもろ肌を脱いでみせたそうですが、…、ちょっと左の腕をまくってみせるだけに改めました」とある。
乳房の動悸ここに注目
六代目尾上梅幸の芸談『女形の事』に、与三郎の名乗りを聞いて驚くところで、「お富は乳の動悸を押さえ…、その驚く場合に手先きの指の開かないようにするのが女方の心得の一つ」と書いている。また、湯帰りで、「赤い糠袋をくわえるというだけで、年増の女に優にやさしい色気を見せることのできる」とも。お富の姿をリアルに描く、世話物の女方のさりげない工夫だ。
作者は潔癖症
三世瀬川如皐は、本作のほかは『東山桜荘子~佐倉義民伝』、舞踊の『勢獅子』の作者として知られる。呉服の行商をしていて中年になってから作者の道に入り、嘉永3年44歳の時に三世瀬川如皐を継ぐ。江戸前のすっきりした世話物を残しているが、その性格は潔癖で癇癪持ちで作風も綿密だった。四世鶴屋南北と河竹黙阿弥のあいだの時代が活躍期。