元禄忠臣蔵 ゲンロクチュウシングラ

観劇+(プラス)

執筆者 / 金田栄一

本所松坂町

吉良邸といえば本所松坂町といわれますが、松坂町という町名はこの事件の時にはなく、「本所一ッ目」あるいは「本所無縁寺(回向院)うしろ」「本所台所町横丁」と呼ばれていました。松坂町という名は、この事件の後、吉良屋敷が幕府に没収され、その後しばらくしてからのこととなります。また吉良上野介がここを屋敷としたのは討ち入りの前年といいますから、ごく短期間しかこの屋敷には住まなかったようです。

泉岳寺

赤穂浪士といえば泉岳寺、播州浅野家の菩提寺として知られ、昔から一年中線香が絶えないといわれています。泉岳寺の墓所には浅野内匠頭のほか大石内蔵助をはじめとする四十七士の墓がありますが、正確にいえば墓石は45基、間新六と寺坂吉右衛門は遺骨の無い供養塔、また討入り前に自害した萱野(かやの)三平(早野勘平のモデル)の供養塔も加わり、計48基となります。また寺の敷地内には大石内蔵助の銅像、吉良上野介の首を洗ったとされる首洗い井戸、赤穂義士記念館などがあります。

旧暦の季節感

討入りは元禄15年の12月14日です。当時は夜明けから1日が始まると考えられていましたから、現在の考え方だと15日未明ということになります。江戸時代は太陰暦、西暦に直すと1703年1月30日となり、年で一番寒い季節であったことがわかります。1602年の江戸開府からほぼ100年、太平の元禄時代のできごとでした。

『元禄忠臣蔵』の通し上演ここに注目

江戸時代の芝居見物は「明(あけ)六つ」から「暮(くれ)六つ」、すなわち夜明けから日暮れまで一日中かけて楽しまれるものでしたが、今は昼夜通しで観劇してもそこまでの時間にはなりません。特に『仮名手本忠臣蔵』は通し上演で楽しめるお芝居の代表的なものですが、この『元禄忠臣蔵』もしばしば通し上演が行われます。歌舞伎というものは自然と観客に親切に出来ていますので、屋内の芝居の次は屋外の芝居が来るように構成され、適度な気分転換が出来ますが、この作品のような「新歌舞伎」はどちらかというと西洋演劇の手法で書かれていますので、ドラマが先行して屋内の芝居が続く傾向にあります。実は、原作には屋外の場面もいろいろとありますが上演時間の都合でカットされることが多く、この作品を通しで見ると『仮名手本』の時とは違った感覚を体が覚えるというのは、そのあたりに起因しているのかもしれません。

「君父之讐共不可戴天」ここに注目

これは討入のおりに吉良邸玄関に掲げられた同志連名の「浅野内匠家来口上」に記された文言です。中国の「礼記」という書物の「父之讐(ちちのあだは)、弗与共戴天(ともにてんをいただかず)」に由来します。父の敵には同じ空の下に一緒に居たくないほどの恨みを持つということで、ここから「不倶戴天(ふぐたいてん)」という言葉が生まれました。長唄舞踊「雨の五郎」などにも「不倶戴天の父の仇討たんずものと~」と出てきます。内蔵助を頭領とする浪士たちはこれに「君」の文字を加え、「君父之讐(くんぷのあだ)」という言葉を拠り所にして仇討ちを決行しました。『元禄忠臣蔵』の原作では、新井白石がこの件に言及しています。