壇浦兜軍記~阿古屋 ダンノウラカブトグンキ~アコヤ

観劇+(プラス)

執筆者 / 飯塚美砂

景清とは

藤原南家伊藤氏の末裔で、藤原景清とも梶原景清ともいうが、平家の侍大将として名をはせたので平景清(たいらのかげきよ)、その豪勇さから強いという意味の“悪”という字を付けた悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)と呼ばれることが多い。治承・寿永の源平合戦では素手で敵の兜(かぶと)の錣(しころ)を引きちぎったと『平家物語』に書かれている。屋島・壇ノ浦の戦いにも従い、平家滅亡後は何度も鎌倉の頼朝の命を狙ったといわれる。鎌倉の扇ケ谷(おうぎがやつ)には今も捕えた景清を押しこめていたという土牢が残っている。

牢破りの景清・錣引ここに注目

悪七兵衛景清の武勇は伝説となり、幸若舞や能楽、浄瑠璃に取り上げられ、歌舞伎では歌舞伎十八番『景清』や『出世景清』、日向に流されたという伝説から『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)』などさまざまな狂言が生れた。この『壇浦兜軍記』も『出世景清』から派生したものである。『出世景清』には景清が腕で牢を破る場面がある。また源氏の武将三保谷四郎国俊と兜(かぶと)の錣(しころ)を引きあったエピソードは、“錣引”というパターンとなって芝居や舞踊の題材に残っている。

人形劇の名残1・竹田奴

岩永左衛門が、阿古屋を拷問にかける責め道具を持ち出せと奥に声をかけると、「キャッキャッキャッ」と奇声をあげながら飛び出してくるのは、ファンキーな衣裳に化粧でピョンピョンと奇妙な動きをする “竹田奴”と呼ばれる下部たち。竹田奴とは大坂の竹田人形芝居で使われたツメ人形(その他大勢の役に使われる一人遣いの人形)のことだろうと言われている。『阿古屋』のほかに『義経腰越状・五斗三番叟』にも登場する。

人形劇の名残2・人形振り

阿古屋を拷問しろと責める敵役“岩永左衛門(いわながさえもん)”は、赤い錦の裃に黒いビロードの着付け、油でテラテラした矢筈鬢(やはずびん)の赤っ面は人形芝居の人形そのまま。太い眉毛が上下するのもご愛敬である。セリフも義太夫が語り、動きは人形振りで演じられる。

蕗組の唱歌(ふきぐみのしょうが)ここに注目

箏を弾きながら阿古屋が歌う曲を聴いて、畠山重忠は「蕗組の唱歌ならん(今うたったのは蕗組の唱歌であろう)」という。この“蕗”とは筝の伴奏附きの組歌曲の曲名である。第一曲のうたい出しが「蕗というも草の名…」で始まるところから曲名を『蕗』という。筝組歌の中でも傑作とされる曲である。阿古屋の歌う曲をこの『蕗』の替え歌と瞬時に気づく重忠、かなりの風流人である。

阿古屋の扮装と性根

阿古屋が豪華な傾城の正装で出るのは、英雄の恋人であるという高い誇りと、尋問に負けまいとする遊女の意気地を表している。単なる役柄の形容ではない。阿古屋の花道からの登場に、義太夫が「形(かたち)は派手に、気はしおれ」と語るのがこの役の性根だといわれる。

阿古屋の芸の継承ここに注目

この役は気位の高い遊君のつよい性根と、心のうちに恋人への慕情を秘めて箏と三絃と胡弓を弾き歌うという至難な役である。戦後は十二代目片岡仁左衛門から六代目中村歌右衛門に承け継がれ、ながらく歌右衛門にしか出来ない当たり芸だった。1997(平成9)年1月の国立劇場開場30周年記念公演の『壇浦兜軍記』で、坂東玉三郎に受け継がれた。