源平布引滝~義賢最期・実盛物語 ゲンペイヌノビキノタキ~ヨシカタサイゴ・サネモリモノガタリ

観劇+(プラス)

執筆者 / 水落潔

「源平布引滝」の題名

題名の「源平布引滝」は初段に「布引滝」の場面があるところから来ている。この作以前に歌舞伎で同じ題名の狂言が上演されているが関連は不詳。

木曽先生義賢(生年不詳―1155年没)とは

源為義の次男。先生(せんじょう)とは東宮武官の長の意味。平家物語には兄義朝の長男義平に討たれたとあり、平家方と死闘したというのは作者の創作。

仁左衛門が復活ここに注目

「義賢最期」の場は長く上演が絶えていたが、1943(昭和18)年に十二代目片岡仁左衛門が復活、その時指導した市松延見子に教わって1973(昭和48)年中座で片岡孝夫(現仁左衛門)が初演して、以後人気狂言になった。幕切れに血まみれの大紋を着て両腕を開き「蝙蝠の見得」を見せた後、その形のまま二重から前に仏倒しに落ちる壮烈な演技が見もの。立ち回りの中で、義賢が襖を組んだ上に乗り、その襖が横倒しになる演出は現仁左衛門の創案である(「とにかく芝居がすき」)。

多田藏人行綱

生没年不詳。摂津国多田庄を所領とする多田源氏の末裔で、平家物語では鹿ケ谷の平家打倒の謀議を清盛に密告した人物になっている。後に頼朝の旗揚げに呼応したが、木曽義仲に破れた。四段目「鳥羽の配所」では法皇を助けるため松波検校になりすまして鳥羽離宮に入りこみ琵琶を弾いた後本名を明かす。

斎藤別当実盛(生年不詳―1183年没)

源義朝に従い保元、平治の乱に参戦したが、敗れた後は平宗盛に仕えた。源平の富士川合戦で敗走した後、篠原合戦では七十歳を越していたが赤地の鎧に髪を黒く染めて出陣して手塚太郎光盛に討たれた。木曽義仲を助けた(「源平盛衰記」)のをはじめ、様々な逸話(「平家物語」)を残した武将で、謡曲『実盛』など多くの文芸の素材になっている。

音羽屋型と團蔵型ここに注目

実盛には音羽屋型と團蔵型が伝わっている。音羽屋型は三代目坂東三津五郎から伝わる型を五代目尾上菊五郎が大成した型で、腕をみるところで瀬尾と八の字に決まること、物語で派手な動きを見せ、また要所で世話に砕けるなど様式美に富んでいる。團蔵型は七代目市川團蔵の型で渋くて皮肉な芸風を活かして、地味だが浄瑠璃を踏まえた型に特色がある。腕を見るところは瀬尾の見得に対して裃の衿に手を掛けて見込み、小万が蘇生するところでは、九郎助が井戸の底に声を掛ける民俗風習を取り入れている。太郎吉を馬に乗せるのも團蔵型だが、今は音羽屋型もそうしている。

実盛の二つの物語

実盛の二つの物語が見ものになっている。一つは小万の腕を斬り落とした次第を述べる物語。もう一つは成人した太郎吉に討たれることを予告する物語。未来を予見した物語はこの狂言にしか見られない趣向だが、平家物語の実盛最期を取り込んでいて、討つのが手塚太郎というのも平家物語の記述のままである。

瀬尾の「もどり」ここに注目

憎々しい老敵の瀬尾が最後に小万の父親であることを告白して自ら太郎吉の合口を受けて死ぬ。このように悪と見えた人物が最後に善人になるのを「戻り」と呼んでいる。瀬尾は太郎吉の手に大刀を持たせて、自分の首に当てて斬らせる。その後、とんぼを返って死ぬ演技がある。平馬返りと呼ばれる型である。