摂州合邦辻 セッシュウガッポウガツジ

観劇+(プラス)

執筆者 / 小宮暁子

玉手御前の被りもの

玉手御前が最初の花道の出に被って出るのは、ちぎれた右の片袖や、頭巾など、いくつかのやり方がある。六世中村歌右衛門は「私は父(五世歌右衛門)のやり方通り、片袖をちぎって冠ってでてまいります」と芸談で述べている。たしかに片袖をちぎって被った場合、夜の闇に浮かび上がる赤い胴着の袖が玉手御前の若さ、継子への思いを色濃く感じさせて色っぽい。昭和の名女形二人、歌右衛門(六世)と、尾上梅幸(七世)はともにちぎった片袖を被っていた。

恋の真偽は?ここに注目

本文で「十九や二十歳(つづやはたち)」と語られる年頃の若い玉手御前に対し、夫高安左衛門は親ほどの歳頃。それに引き換えて俊徳丸は玉手御前より少し年下かほぼ同年齢。腰元時代、素敵な若殿様に憧れていたっておかしくない。偽りの恋であったと終局で明かされるのだが、梅幸(七世)は「僕は恋していると思います」と芸談のなかで述べている。

クドキ

主に女形が、役の気持ちを切々と訴えかける見せどころをさしていう。義太夫狂言などで三味線に合わせて演技する場合が多いが、踊ってはいけないといわれている。玉手御前の場合は母親に向かって俊徳丸への想いを訴える所と、俊徳丸本人に訴える所の二カ所がクドキである。その中のヤマ場を特に“さわり”という。

手負い

傷をおった人物が苦痛をこらえて行う演技の総称。玉手御前が父に腹を刺されて、苦しい息の中で述懐する場面がそれだ。

モドリ

玉手御前が手負いになって行う述懐は、不義=悪と思われていた継母が、実は継子助けたさにとった行動=善とわかる場面なので、元の本性にもどるところからモドリと呼ばれる。『義経千本桜』の「すし屋」のいがみの権太や、『源平布引滝』の「実盛物語」の瀬尾十郎なども手負いになってモドリで本心を明かす。

通し狂言

現在の歌舞伎の演目は、長い年月の間に洗練され残った場面のみが上演されることが多く、この狂言も「合邦庵室」のみの上演が続いていた。1968(昭和43)年に国立劇場で尾上梅幸(七世)の玉手御前で通し上演されてから、度々通しもみられるようになった。玉手御前が俊徳丸に毒酒を飲ませる発端の「住吉神社境内」、「高安館」での高安家の内紛、「天王寺万代池」などが上演されると、この「庵室」までの筋が通る。

俊徳丸と四天王寺の日想観(じっそうかん)ここに注目

謡曲の『弱法師(よろぼし)は、高安家の子息の俊徳丸が讒言で家を追われ、盲目の乞食になって天王寺(四天王寺)の西門で「日想観」を見て父と再会する物語。説教の「しんとく丸」は父の後妻に呪詛されてらい病になり、四天王寺に捨てられる。古くから四天王寺の西門は浄土の東門と向かい合っていると信じられ、春秋の彼岸の中日にこの門から真西に沈む夕日を拝む「日想観」は現在も彼岸会に行われている。この西門の少し先が合邦辻で、その近くにいまも閻魔堂がある。