鎌倉幕府初代将軍頼朝(よりとも)の三回忌。若武者畠山重保(はたけやましげやす)が大きな秘密を抱えていると知った頼朝の子頼家(よりいえ)は、それが父の死に関わることだと確信し、激しく重保を詰問する。しかし、その秘密は将軍家の存続のために決して明かされてはならないものであった。少女小周防(こずおう)を巻き込み、頼家の苦悩は深まる。
正治3(1201)年1月13日。鎌倉西御門の東岡にある法華堂では、鎌倉幕府の前の将軍源頼朝の三回忌法要が行われている。だが、現将軍で頼朝の子である頼家(よりいえ)は現れない。門の中から、被衣(かづき)で顔を隠した若い美女と、卒塔婆(そとば)をかかえた下女が護衛の郎党に追い出される。「将軍の墓に、この方だけは参っても差しつかえないと言われて来た」という下女の言葉に、護衛の侍たちはますます怪しむ。
そこへ顔を覆面で隠した若武者が現れ、間に入る。それは畠山重保(はたけやましげやす)だった。重保はなにか重大な秘密を抱えている様子。美女は、実は御所に仕える小周防(こずおう)という少女で、頼朝の妻である尼御台(あまみだい、北条政子)から、頼朝を弔う卒塔婆を墓に供えるように命令されて来たのだった。重保はなかなか立ち去ろうとしない小周防をむりやり去らせたあと、「殿、お許しくだされ」と地面に泣き崩れる。
法要に遅れてきた幕府の重臣・大江広元(おおえのひろもと)は、泣いている重保を見つけて叱責する。ちょうど2年前の深夜、頼朝は、女に変装して御所の築地(ついじ、塀)を乗り越え、小周防のもとへ忍ばんとしていた。番をしていた重保が怪しんで声を掛けたが答えなかったので、頼朝を斬り捨ててしまったのである。その事を知っているのは広元と尼御台と重保の三人だけだった。落馬のために死んだと発表することにしたのは、夫の恥を隠したい尼御台の意向と、重保に主殺しの罪を着せたくないためであった。広元に「源氏のために生き、仕えて死ね」と諭され、重保は悄然と法要へ向かう。
墓参をすませた小周防が門前で重保を待つところへ、重保が山門の中から駈けだしてくる。重保は小周防に頼朝の死の事情を告白し、「自分への恋は遂げられないからあきらめろ」と叫んで去って行く。何も知らず重保を慕っていた小周防はその場に泣き伏す。
鎌倉石壺の御所。亡き父の寝所で現将軍の頼家が酒を飲んでいる。法要の席から畠山重保が駈け去ったことを聞いた頼家は、重保が父の死の真相を知っていると確信する。そこへ奥州新熊野(にいくまの)の僧と羽黒山(はぐろさん)の僧の領地争いの訴訟が持ち込まれる。頼家は広げられた絵図の中央に墨で線を引き、「出家の所領争いなど見苦しい」と言い渡す。「頼朝様でさえ、寺の領地については配慮されたのに」と不満を述べる僧たちに、頼家は「自分は生まれながらの将軍、田舎坊主のために道理を曲げる者ではない」と言い放つ。
そこへ重保が出家したいと願いに来た。頼家はその理由を言えと責めたてる。尼御台と大江広元が出て、頼家の短気と何でも知りたがる気性は主君にふさわしくないとたしなめる。しかし頼家は母の尼御台に「なぜ自分一人が秘密を知ることができないのか」と迫る。
頼家は小周防を呼び出させ、自分の側妾(そばめ)にしたいと告げる。驚いた尼御台は「畜生道に堕ちる行いだ」と泣くが、それでも真実を話そうとはしない。頼家は小周防に父を失った自分の悲しさを語り、知っていることをどうしても聞かせてほしい、聞かせてくれればお前の恋を叶えてやるとかき口説く。泣く小周防を、重保は「自分もそなたを深く思っているが、そなたが今の自分の難を救おうとするのは自分の心を殺し、この世のおきてにそむく」と告げて斬り殺す。頼家は狂気のように重保を責めるが、尼御台は長刀をかまえて「家は末代、人は一世」と言い放ち、源氏を守るため、たとえわが子でも、そのままにはしないと、断固たる決意を見せるのだった。
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