矢の根 ヤノネ

観劇+(プラス)

執筆者 / 寺田詩麻

五郎の演技

『矢の根』は、車鬢(くるまびん)の鬘をつけ隈取りをして、鎧・小手すね当てを着た上にどてらを着た五郎が、ふつうではありえないほど大きな矢の根を研いでいるところからはじまる。つらねを述べ、寝るときには「背ギバ」と呼ばれる形であおむけになる。そして兄の危難を知ったあとは『鳴神』でも用いられる「柱巻きの見得」などを見せ、仏像の仁王の形を模した仁王襷を掛け直し、後ろに掛けた三本太刀のうち2本を差し、馬子と立ち廻って馬を奪う。演技や扮装に後見(こうけん)の助けを借りながら、こうした一連の型を五郎役の俳優が美しく躍動感豊かに演じることに、この作品の魅力と見どころがある。

曽我兄弟の仇討ち

曽我十郎・五郎の兄弟は平安時代末期から鎌倉時代はじめに実在した人物で、伊豆の豪族・河津三郎祐泰(かわづのさぶろうすけやす)の子。しかし祐泰は領地争いのため、親戚の工藤祐経(くどうすけつね)に暗殺され、所領も奪われた。兄弟の母は曽我祐信(そがすけのぶ)と再婚し、曽我の姓を名乗った兄・弟は18年間苦労をして、鎌倉幕府の将軍源頼朝が催した富士山の裾野の狩場で工藤を討った。兄は戦いの中で斬られて死に、弟は捕らえられ処刑された。その事績にさまざまな脚色を加えてつくられたのが『曽我物語』である。

歌舞伎と曽我兄弟ここに注目

仇討ちまで苦労する中、『曽我物語』の十郎・五郎兄弟は、たとえば大磯の廓の女性となじむ。また、いよいよ仇討ちとなれば、兄弟は幕府の重職についている祐経をねらって、夜ひそかに祐経の宿舎に侵入する。こうしたエピソードは中世の芸能である幸若舞曲や能で脚色された。その影響を受けて、近世の芸能である歌舞伎でも脚色が行われ、多くの作品が作られた。とくに江戸の歌舞伎では十八世紀以降、正月に曽我兄弟の仇討ちを取り入れた作品を上演するのが決まりになった。そうした作品を総称して「曽我物(そがもの)」という。

矢の根を研ぐ

五郎が捕らえられた十郎のもとへ向かう趣向は、幸若舞曲の『和田酒盛(わださかもり)』を題材にしている。この作品では、十郎は鎌倉幕府に仕える武士の和田義盛に呼び出され、無理に酒をすすめられる。その辛い心が、故郷の古井で矢の根を研いでいた五郎に夢で伝わり、五郎は酒盛りの席へ乗り込む。1729(享保14)年1月江戸市村座で上演された『扇恵方曽我(すえひろえほうそが)』に、この場面が脚色されて盛り込まれ、二代目市川團十郎が五郎を演じた。幕府御用の研物師が正月の行事として行った矢の根を研ぐ儀式を取り入れたともいわれる。この興行は大評判で正月から五月まで大入りが続き、座元(興行主)が蔵を建てた。これを人々は矢の根蔵と呼んだ。矢の倉(現・東京都中央区東日本橋1丁目)の地名はこの蔵があったところだという。

つらねの趣向ここに注目

二代目市川團十郎は、初代の始めた荒事を「家の芸」として受け継ぎ、洗練させた人であると同時に、文学の教養も深い文人であった。「矢の根」のはじめの「虎と見て石に田作(たづくり)……」からはじまる「つらね」(凝ったことばをつないだ長ぜりふ)は二代目の自作とされるが、正月のお祝いに使われるめでたいものや、七福神の名と特徴を織り込みながら、五郎の仇討ちにかける意気込みと貧乏な身の情けなさを、あくまでもユーモラスに聞かせる。春らしいのんびりした趣向の中にしゃれた味がある。

大薩摩ここに注目

大薩摩(おおざつま)は江戸で大薩摩主膳太夫がはじめた浄瑠璃の一派。勇壮で豪快な三味線の曲と、朗々とした語りが特徴。江戸時代中期に歌舞伎の荒事の伴奏音楽として流行したが、その後長唄に吸収された。現在は長唄の演奏家が演奏する。『矢の根』で大薩摩の語り手主膳太夫が、いつも荒事の作品でお世話になっているからと、曽我五郎(と、それを演じる俳優)のもとへ年始のあいさつに来るのは、しゃれた趣向である。なお、初演からしばらくは実際に大薩摩の太夫が舞台に出て宝船と扇を贈ったが、現在は俳優が主膳太夫を演じる。