寿曽我対面 コトブキソガノタイメン

観劇+(プラス)

執筆者 / 小宮暁子

曽我の仇討ここに注目

父の河津三郎祐泰(すけやす)を工藤祐経に討たれた曽我十郎五郎の兄弟が、1193(建久4)年5月28日、富士の裾野の井出の館で工藤を討って敵をとった。『吾妻鏡』や『曽我物語』に史実として記されている。兄の十郎はその場で討ち死にし、弟五郎は捕えられて頼朝に対面したのちに斬首された。兄弟の母が、父の死後曽我家へ再嫁したので、兄弟は曽我の姓を名乗っていた。
十八年にわたる艱難辛苦と、年若い兄弟の死を悼む民衆の思いから、中世から広く人口に膾炙(かいしゃ)して、謡曲、古浄瑠璃、歌舞伎などの人気演目となった。

初春狂言

曽我兄弟の事例を扱った「曽我物」は荒事を得意とする初代市川團十郎の五郎を得て人気狂言となった。二代目團十郎の活躍する宝永年間(1704~1711)にはすでに正月興行は曽我物であける慣習が始まったとみられる。江戸の終焉まで160有余年、毎春新作の曽我物が上演されたので一千種にも及ぶ曽我物ができ上った。江戸の人々にとっての兄弟の人気の凄さが分かる。艱難辛苦のうえに仇討を成し遂げる物語は、一陽来復をことほぐ祝儀物として喜ばれたのである。

曽我狂言

現在ではこのほかには歌舞伎十八番の『助六』『矢の根』『外郎売』や舞踊の『根元草摺引』『雨の五郎』が上演されている。『鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)』は、曽我兄弟の父・河津三郎が主人公の舞踊劇。『曽我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)』のように外題に「曽我」と入る演目は、「正月=曽我」のイメージがあったのを外題にあてこんでいる作品であるが、曽我兄弟と直接関係のない話も多い。

東西型の違い

舞台装置は、高足(たかあし)の二重屋体に、紺と白の市松の揚障子(あげしょうじ)、梅の釣枝。揚障子を上げると工藤祐経の紋所である庵木瓜(いおりもっこう)の模様を散らした襖(ふすま)がおきまり。関西の舞台ではそのあと、工藤が「思い出せば、オオそれよ」のセリフにかかると、その襖があき、富士山が背景にみえる。正月らしい晴ればれとした感じが増加する。

役柄の典型ここに注目

現在の歌舞伎では一人の役者が立役(たちやく)も女方(おんながた)も、敵役も善人役も種々演じることがままあるが、江戸時代は役柄の分業化がすすんでいた。そんななか、初春に一座の俳優たちの位置付けをはっきり解らせてくれるのが『対面』の舞台だった。工藤祐経は立役(元来は敵役に入る役だが、座頭(ざがしら)が演じることによって善人である立役に変化)で、五郎が荒事、十郎が和事、朝比奈が道化役、近江が敵役、八幡が立役、梶原景時が叔父敵、梶原景高が端敵、鬼王新左衛門が実事、大磯の虎を立女形、化粧坂の少将を若女形が勤めた。それぞれの役柄を表す、様式的な美しさが強調された鬘と衣裳でずらりと居ならぶ、豪華な舞台となっている。

化粧声(けしょうごえ)ここに注目

五郎十郎の花道の動きに伴って並び大名が「アーリャ、アーリャ」と声をかけ、動きが止まる時「デッケェ」とかける。おおどかな関東訛りの「大きい」で、役者への最高の褒め言葉。観客でなく舞台上の共演者がかけて稚気とおおらかさあふれる雰囲気を作る。普通は「アーリャ、コーリャ」とかけるが『対面』にかぎって「コーリャ」はない。

絵面(えめん)の見得

幕切れにはいくつものめでたい見得が決められ、舞台全体が絵のような形を作る。工藤祐経は高座に立って友切丸を手に鶴の見得。五郎、十郎、朝比奈の三人が一緒で富士山の形。平伏する鬼王が亀の見立てで鶴亀と富士で目出たさの三幅対になぞらえる場合もある。