六歌仙容彩 ロッカセンスガタノイロドリ

観劇+(プラス)

変化舞踊(へんげぶよう)

変化舞踊は江戸末期の文化文政期(1804~29)に大流行した歌舞伎舞踊で、踊り手が一人で老若男女さまざまな人物を次々と踊りわけていくものです。趣向をこらし、変化のスピードと技巧を見せるところに眼目があるので、一つ一つの踊りは脈絡のないことが多く、現在までのこっている「鷺娘」「汐汲」「手習子」「女伊達」「供奴」なども、いまでは独立して演じられる方が多いのです。その中で「六歌仙容彩」は、六歌仙という一つのテーマに沿って、変化に富んだ場面が全て通しで残っている貴重な作品です。そのため、この作品は一人で五人の男を踊り分けなければ意味がないという人もあり、各役に相応しい豪華な配役で観たいという意見もあるのです。

全体の構成の妙

この「六歌仙容彩」の魅力の一つは、構成の妙にあります。「遍照」は、初演時は大薩摩だったのが竹本になり、短く刈り込まれていますが、高貴な老僧の叶わぬ恋心を渋く重厚に描きます。つづいて「文屋」は一転して、安手な公家が軽快な清元の曲に合わせて踊る、江戸の吉原気分が横溢した洒脱な味。官女とのやりとり「恋づくし」などもあり、王朝の和歌の雅びを、俳諧のくだけた軽みに染め変えた[やつしぶり]。そのあと「業平」になると、またがらりと変わって、典雅で気品のある王朝の美男美女の踊り。業平は「扇尽くし」での上品で優雅な演技が求められます。対する小町も、臈長けた気品のなかに韜晦した大人の味を見せます。「喜撰」になると舞台が替わって祇園の茶屋で、軽妙な法師の遊興気分あふれた住吉踊りなど、なんとも賑やかです。百人一首で知られた喜撰法師「わが庵は、みやこのたつみしかとすむ…」の宇治山を、江戸の辰巳(南東)にある深川遊郭に読み替えるなど、洒落のめした歌詞と振りがついています。そして最後の「黒主」は大時代の王朝物。能の「草子洗小町」にある小町と黒主の歌争いの世界を借りて、天下をのぞむ叛逆者・黒主の公家悪で幕となります。

小町伝説

六歌仙は「古今集」の仮名序で紀貫之が「近き世にその名聞えたる」と記した六人の歌人。中で小野小町は紅一点で、「いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流れなり。あはれなるやうにて強からず。言はばよき女のなやめるところあるに似たり」とされています。貫之が「よき女の悩めるところ」と指摘した小町は、才色兼備の閨秀歌人でありながら、つねに深い憂愁をまとう女として扱われてきました。生涯独身だったという伝説とともに、江戸時代までさまざまな文芸や語り物、芝居や講談、落語などの題材として繰り返しとりあげられ、人々に愛されてきました。能では、老残の乞食となった小町が、実は深い悟りを開いていたという「卒塔婆小町」「鸚鵡小町」などがあります。しかし歌舞伎では一転して、「積恋雪関扉(関の扉)」の小町姫も「六歌仙容彩」の小町も、常に若く美しい姫の姿で登場するのが通例です。しかし常に[悲しみをまとった]美女である点は変わりません。

「関の扉」と「六歌仙容彩」

歌舞伎舞踊を代表する名作中の名作として、この二つの作品には共通点が多いのです。
「関の扉」では、大雪の山中に墨染桜が咲きほこる逢坂の関に、良峯宗貞が先帝の御陵(みささぎ)を守っている。そこに小町が雪道をはるばるやってくる。二人はかつて一度は恋におちながら結ばれなかった昔を懐かしみ、嘆きあいます。この良峯宗貞こそが、のちの遍照(遍昭とも)なのです。桓武天皇の孫で俗名は良岑宗貞。嘉祥2年(849)蔵人頭となり、翌年には従五位上に叙されながら、寵遇を受けた仁明天皇が崩御すると三十五歳で出家し、比叡山に入って天台密教の修行に励み、貞観10年(868)に創建された花山寺の座主となって、花山僧正とも呼ばれました。小町と歌の贈答をしたと「古今集」に伝えられています。「六歌仙容彩」の遍照の出の「ここに僧正遍照の、昔は花の良峯と」という浄瑠璃の文句はこのことをさしているのです。 そして大伴黒主も「関の扉」に関守関兵衛として登場し、のちに小町桜の精・墨染に、天下をねらう謀反人の本性を暴かれます。「古今集」仮名序で紀貫之は大伴黒主を「その様いやし。言はば、薪負へる山人の、花の陰にやすめるがごとし」と書いています。これをそのままに歌舞伎の美学で造形したのが関守関兵衛でしょう。江戸の作者の教養がいかに高かったかが、よく分かります。