一谷嫩軍記~熊谷陣屋 イチノタニフタバグンキ〜クマガイジンヤ

観劇+(プラス)

執筆者 / 前川文子

一枝(いっし)を伐(き)らば、一指(いっし)を剪(き)るべし

須磨寺には今も桜木があり、合戦当時に義経がこの桜を愛して、「此花江南所無也(このはなこうなんのしょむなり)一枝折盗(せっとう)の輩(ともがら)に於ては天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を剪るべし」との制札を立てたと伝えられている。これが作品の重要な小道具として使われる。花を惜しむ心を非情の掟で表現した制札にはさらに、一枝=一子、一指=一子と言葉を掛けて、身替りを立てて敦盛を助けよとの義経から直実への命令が隠されている。作者宗輔が、須磨寺の桜伝説に重ねた脚色である。

首実検(くびじっけん)ここに注目

武士が戦場で討ち取った敵が本物であるかどうか、大将が実際に首を見て検分すること。写真のない時代、本当に本人なのかを見極めるのは困難。証人として敵方に確認させることもあった。実検のための細かい作法があった。芝居では、この場面で偽首(にせくび)が出されることが多く、それが重要な局面を作るので見逃せない。

制札の見得(せいさつのみえ)ここに注目

制札とは、禁止などの決まりを書いた立札のこと。首実検にのぞむ直実は、制札を引き抜き、首桶とともに義経に見せる。そして詰め寄ろうとする相模や藤の方の動きを封じ、制札を大きくつかんで見得となる。事態が山場を迎えるときに、見得は大きくストップモーションのような働きをして、緊迫した一瞬をかたち作る。制札の見得は、自らの判断の可否を義経に仰ぐ直実の心をあらわす、大きな見せ場。

團十郎型と芝翫型ここに注目

現行の演出は「團十郎型」と呼ばれ、七代目市川團十郎から九代目團十郎に引き継がれ、初代中村吉右衛門へと伝えられてきたもので、内面の表現を重視する。直実は出家のために丸坊主になるが、原作では実は髷を切っただけ。幕切れも原作と異なり、花道で「十六年はひと昔」と独り言をつぶやき、笠をかぶって憂い三重の音色で引っ込む。悲しみがよく伝わる近代的な演出なのである。
現在は上演が少ない「芝翫型」は古風な形容重視と言われ、三代目中村歌右衛門から四代目歌右衛門、四代目中村芝翫へと受け継がれたもの。直実の衣裳も黒ビロードに赤地織物の裃、芝翫隈とよばれる紅の隈取で荒武者らしい姿。「制札の見得」のかたちも違う。最後の場面では原作通り有髪で、「十六年…」のせりふも舞台で自嘲的に人々に聞かせる。

【写真】芝翫型 熊谷次郎直実(中村橋之助) 平成22年10月平成中村座

『一谷嫩軍記』は時代物

「熊谷陣屋」は<時代物>の代表作『一谷嫩軍記』の三段目にあたる。<時代物>とは江戸の観客にとっての<時代劇>で、江戸時代よりも古い時代を題材にとった作品のことだ。『一谷嫩軍記』は、江戸時代半ばの1751年に初演されたが、題材となった一谷の合戦は平安時代が終わりを告げる1184年のできごと。つまり初演当時の江戸時代の人々にとっても、550年以上も昔のできごとを描いているわけだ。現代の人々が、大河ドラマを見る感じとあまり変わらない。

もうひとつの物語

『一谷嫩軍記』には、同じ『平家物語』から取った別のエピソードも含まれている。主人公は、歌人として知られた平家の薩摩守忠度(さつまのかみただのり)。平家一門が都落ちしたため、彼の名歌が勅撰和歌集の新古今和歌集の選から落ちそうになったのを、義経が<詠み人知らず>として入選を勧める。入選を知らせるため短冊を桜の枝に結び、家臣岡部六弥太に命じて忠度に届けさせる二段目の場面が「流しの枝」と呼ばれる。忠度は義経に感謝し、戦場で六弥太に討たれる。義経が勅撰和歌集の選に関与したことは、敦盛の命を助けたことと同様にフィクション。

並木宗輔の作品

並木宗輔(1695~1751)は、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の三大名作の作者の一人でもある。若いころ仏門にあったと言われ、深い洞察力で人間を見据えた重層的な悲劇の書き手であった。『一谷嫩軍記』は、『平家物語』を緻密に再現するかのような筋の運びに、実は~という手法で意外なフィクションを積み上げていく。そこに生まれる、息詰まるような情愛のせめぎ合い、非情の選択で生まれる苦しみ悲しみは極めてリアルで、現在の観客の心をも揺さぶる力を持っている。江戸時代の人々と同じように、作者並木宗輔の虚構の歴史劇にどっぷり騙されるつもりで観てみよう。