一谷嫩軍記~熊谷陣屋 イチノタニフタバグンキ〜クマガイジンヤ

父が戦場で選んだ厳しい道、
わが子を身替りにして、得られたものは……。

源平合戦のさなか、源義経の家来熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、敵軍の平敦盛(たいらのあつもり)の命を助けよとの密命を受ける。やむなく身替(みがわ)りにしたのは直実の息子だった。しかし熊谷の陣屋に、息子を心配する妻の相模(さがみ)があらわれる。

あらすじ

執筆者 / 前川文子

一枝を伐らば

1184(寿永3)年、源平一谷合戦の折。源氏の武将熊谷次郎直実の陣屋前に桜の若木があった。桜には「一枝(いっし)を盗むものは、一指(いっし)を切り落とす」という制札が立っていた。それは花を惜しむ主君義経の命令によるもの。そこへ故郷武蔵国から、直実の妻相模が訪ねてくる。初陣の息子小次郎が気がかりでならず、はるばるやって来たのだ。そこへもう一人、敵方の平敦盛の母藤の方が迷い込んできた。藤の方と相模はその昔は主従の間柄。十六年ぶりに再会した二人だが、今は敵味方になっていた。

【左】[左より]百姓麦六(中村又蔵)、庄屋幸兵衛(松本幸右衛門) 平成20年2月歌舞伎座
【右】平経盛室藤の方(中村魁春) 平成20年2月歌舞伎座
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戦(いくさ)を物語る

そこへ沈痛な面持ちの熊谷直実が帰ってくるが、思いがけない妻相模と藤の方の姿に驚く。実は、須磨浦で熊谷は藤の方の息子敦盛を討ち果たしていたのだ。それを知って斬りかかる藤の方に対し、直実は、非情の戦場における敦盛との一騎打ちのありさまと、立派だった敦盛の最期をていねいに物語る。涙にくれる藤の方がせめてもの供養に敦盛が遺した青葉の笛を吹くと、障子に敦盛の影が現れる。しかしそれはまぼろしだった。

【左】[左より]平経盛室藤の方(中村魁春)、熊谷妻相模(坂田藤十郎) 平成22年4月歌舞伎座
【中央】熊谷次郎直実(中村吉右衛門) 平成22年4月歌舞伎座
【右】平経盛室藤の方(中村魁春) 平成18年10月歌舞伎座
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制札の見得

実はこの陣屋には、敦盛の首を実検するため主君義経が待っていた。実検のために衣服を改めて主君の前に出た熊谷は、まず制札を引き抜いて義経のもとへ差し出し、首桶(くびおけ)の蓋(ふた)を取って捧げ持つ。その首を見て相模はわが眼を疑った。首は敦盛ではなく、小次郎のものだったからだ。騒然となる母二人を熊谷は押しとどめ、制札を手にして義経の言葉を待つ。

熊谷次郎直実(松本幸四郎)、源義経(中村梅玉) 平成20年2月歌舞伎座
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首実検

義経は意外なことに、身替り首を実検して、敦盛に間違いないと断言した。実は、敦盛の本当の父親は後白河法皇なのである。皇統に連なる身分の敦盛の命を助けよと、義経は「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札に事寄せ熊谷に命じていたのだ。主命にこたえるため、熊谷は同じ年頃の息子小次郎の首を身替りにしたのだった。相模は出立前の小次郎の笑顔を思い出し涙にくれる。事態を知った藤の方も呆然となる。

【左】[左より]熊谷次郎直実(中村吉右衛門)、源義経(中村芝翫) 平成19年9月歌舞伎座
【右】[上より]熊谷次郎直実(中村吉右衛門)、熊谷妻相模(坂田藤十郎) 平成22年4月歌舞伎座
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石屋のひみつ

この陣屋には、平家にかかわりある石屋の弥陀六(みだろく)を取り調べようと、源氏の侍梶原景高もやってきていた。梶原は、義経が敦盛を助けたと知ると、鎌倉の頼朝に注進しようと走り出す。ところが弥陀六が梶原に石鑿(いしのみ)を投げつけ殺してしまう。弥陀六は実はその昔、幼い義経の命を助けた弥平兵衛宗清(やひょうびょうえむねきよ)という平家の侍だった。弥陀六は自分の温情が平家を滅ぼす遠因となったことを悔やむ。宗清の顔を覚えていた義経は恩に報いるように、藤の方と鎧櫃(よろいびつ)に隠した本物の敦盛を弥陀六に託す。

白毫弥陀六(市川段四郎)実は弥平兵衛宗清 平成20年2月歌舞伎座
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十六年は一昔(ひとむかし)

子を失い、生きる意味を失った熊谷は、髪を剃り落して出家の意思を明らかにする。主君義経に暇乞いして許され墨染の衣をまとい、息子小次郎が生まれてからの十六年の月日が夢のように思われるとつぶやきながら、出陣の太鼓鳴り響く戦場を離れ、悄然と師と仰ぐ浄土宗の法然のもとへと立ち去っていく。

【左】[左より] 堤軍次(坂東亀寿)、熊谷妻相模(中村魁春)、熊谷次郎直実(片岡仁左衛門)、九郎判官源義経(中村梅玉)、白毫弥陀六実は弥平兵衛宗清(市川左團次)、経盛室藤の方(片岡秀太郎) 平成24年11月新橋演舞場
【右】熊谷次郎直実(中村勘三郎) 昭和47年11月歌舞伎座
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