伊賀越道中双六~沼津 イガゴエドウチュウスゴロク~ヌマヅ

観劇+(プラス)

執筆者 / 水落潔

伊賀上野の仇討 

曽我兄弟の仇討、赤穂浪士の討入りと共に三大仇討と呼ばれる伊賀上野の仇討は1634(寛永11)年11月7日に起こった。事の発端は備前池田藩の家来河合又五郎が、男色の縺(もつ)れから同僚の渡辺源太夫を殺害して逃亡、江戸の旗本安藤某の屋敷に匿われた事件である。藩主の池田忠雄は引き渡しを求めたが安藤は断り、事件は大名と旗本の対立にまで広がった。幕府は又五郎を江戸追放にして事件の収束を図った。源太夫の兄渡辺数馬は義兄の荒木又右衛門に助太刀を頼み、伊賀上野の鍵屋の辻で弟の仇を討った。個人の敵討ちなのだが、大名と旗本を巻き込んだ大事件になったことで有名になった。

荒木又右衛門の36人斬り 

事件が有名になったため、講談などで「荒木又右衛門36人斬り」の巷説が生まれたが、実説は数馬方4人、又五郎方11人で、又右衛門は又五郎の叔父と付き人の2人を斬った。

棒鼻(ぼうはな) ここに注目

「沼津」の冒頭を「棒鼻」と呼んでいる。宿場のはずれに、地名や支配者の管轄を書いた棒杭を建てたところから「棒鼻」と言う。「沼津」は東海道の賑やかな往来を描いた華やかな三味線で開幕し、平作と十兵衛が道中するところでは、二人が客席の通路に降りてアドリブを言いながら客席を巡って再び花道に戻ってくる。観客が二人に目を奪われている間に、舞台の背景が変わるのが歌舞伎の演出である。

上方〈関西〉演出と東京演出 ここに注目

十兵衛には上方式と東京式の二つのやり方がある。和事(わごと)を得意にする上方では、前半の十兵衛は和事で演じる。お米に一目惚れして平作の家に寄り、女房にしたいと持ち掛けて断られる。一連の演技で色男の柔らかみと愛嬌をコミカルに見せるのだ。平作が父親と知るのはお米の盗人騒ぎの後で、その後は分別のある実事の役になる。 原作の浄瑠璃では、前半の平作との対話で十兵衛は実の親と知り、貧乏な親と妹を助けたさに女房にしたいと持ち掛ける。東京式は原作通りの運びで、一貫して実事で演じる。義太夫狂言では上方が原作本位、東京が役者本位の演技演出が多いのだが、「沼津」だけは逆である。しかし東京の俳優も上方式で演じることが多い。

我が身の瀬川に身を投げて

印籠を盗もうとして見つかった後、お米が身の上を語る。クドキと呼ばれる女方の見せ場である。自分のことから騒動が起こり、その場で負った傷がもとで夫の志津馬は養生中、売り食い生活も底を突いてしまい、「今日や死のうかあすの夜はわが身の瀬川に身を投げて」と苦しい胸の内を語る。お米は吉原で瀬川という遊女だったことを織り込んだ詞章に工夫がある。

股五郎の落ち着く先は九州相良(さがら)

親の平作が命を捨てての頼みに、十兵衛は股五郎の落ちていく場所が「九州相良(さがら)」と、「道中筋は参州(三河)の、吉田で逢うたと人の噂」と道筋を、近くで隠れているお米に聞かせる。折から小雨が降りはじめ、十兵衛は立身で下に居る平作に笠を差し付けながら語る。親子一世の逢初め逢納めを描いた「千本松原」の見せ場である。

近松半二の作品

近松半二(1725-83)は本名穂積成章という。二世竹田出雲の門人になり浄瑠璃作者になった。父が近松門左衛門と親しく、本人も近松に私淑していたため、その姓を名乗った。代表作に『日高川入相花王』『本朝廿四孝』『関取千両幟』『傾城阿波の鳴門』『近江源氏先陣館』『鎌倉三代記』『妹背山婦女庭訓』などがあり『伊賀越道中双六』は最後の作品。